山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年11月14日(金)

西条~大山峠~海田~広島

                                    晴れ

 7時5分にホテルを出発する。今日も快晴だ。ホテルが街道に面していたのでそのまま街道を歩く。
 西条の町並みは昔の雰囲気が色濃く残っている。486号線を一旦横切って進み、すぐ先で合流、更にその先で左斜めに進む旧道に入り、友待橋の信号で合流、そのすぐ先で左斜めに進んで、ここから本格的な旧道に入る。
 時友一里塚の案内板が左手のゴミ箱の横に立っていた。
時友一里塚
 時友橋を渡って進むと飢坂になる。ここは山の中で道の両側に木が生い茂っていて薄暗い道だが、きれいな道が続いており歩きやすい。
 飢坂暗い
 この飢坂の由来には二つあり、その一つは土与丸(西條市)に牛万匹という長者がいて、西条1万8千石の収穫物は全て自分のものであった。長者の田植えはにぎやかで、一番東のはし歌謡坂から歌を歌いながら始まり、浜田、西条警察署あたりで昼食を食べ、更に植えていき、夕方この峠にたどり着くが、腹が減って倒れそうになるので飢坂というよになったという説と飢饉の年、飢えに苦しむ人々のため、村人が炊き出しを行ったが、この峠までくると力尽きて死ぬ人が多くでたので、ここを飢坂というようになったという二説がある。横に祠があるが、これは飢えて亡くなった人たちの霊を慰めるために作られたということが案内板に書かれている。
飢え
 「旧山陽道飢坂」の標柱が立っていた。
飢坂標柱
 峠を下ると前面にシャープの大きな工場があって旧道は失われているので、工場を右回りに迂回する形で工場の後ろに出て進む。
 左手に「清水川神社」の参道があり、常夜燈が参道に沿って数多く立っていたので行ってみた。ここの創建は文明18年(1488)以前といわれる旧い神社だ。神社北側の道は旧山陽道で参勤交代等で賑わっていたが、神社の神殿が北側に向いていたため、この前を馬で通るとどんな偉い人も必ず落馬したという。そのため神殿を西の方角に向けなおしたらそのようなことはなくなったということだ。
 清水川神社
 右手街道から少し入ったところに「妙福寺」がある。ここの境内には大きな銀杏が立っており、それが雲ひとつない青空に映えて見事だった。ここは南北朝時代(1331~91)の草創といわれており、後醍醐天皇重祚のみぎり、罪を得た持明院統の皇子が安芸の国へ流され、この寺で終わったという。江戸時代初期に現在地に移り、浅野光晃の家臣大橋一郎左衛門が再建したと伝えられている。
 妙福寺
 ここから先、道なりに進み、車道に合流して右折して進む。車道に合流した時、これまで歩いてきた道の延長線上に当たる、道を横断したところに旧道らしい道が伸びており、資料によってはその道を歩くと書かれているものもあったが、今回は車道を右折し、486号線を横断、更にJRの線路を跨線橋で渡り、八本松駅の向こう側に出て左折、JRの線路に沿って歩くことにした。左手に八本松駅を見ながら進んで、その先沓掛第三踏切でJRを越え、満迫の信号で486号線に出る。右手にミスターMAXがあり、その端に長尾一里塚があるということだったが、標識はなく、こんもりと小高い場所があって、その上に木が生えていたのでこれが一里塚なのかな?と思った。確認したかったがだれもいなかったのでできなかった。
長尾一里塚
 満迫の信号を渡ってすぐに左手斜めに進む旧道があるので、これを歩く。閑静な住宅街を通っていくと、案内標識があり、これに従って進む。このあたりは目印となるものがないのでこの案内板が数カ所あったのは非常に助かった。
道案内
 やがて「旧山陽道 大山峠」という案内板があるところに出た。大山峠の入口だ。9時34分にここを通る。坂を上っていくとまもなく「大山駅跡」と書かれた標識が立っている所に出る。ここは少し広くなっており、延喜式にいう大山駅の跡だ。
大山峠標柱
 やがてY字路に出るが、右へ進むように標識が立っているのでこれに従って進む。右手に「旧山陽道大山峠」と「大山峠」の案内板が立っている。それによると日本書紀崇神天皇〈3世紀前半)の条に「西道」のことが書かれており、これは後の山陽道のことだといわれていることから、この峠も弥生時代には既にあったことになる。その後この道は明治17年(1884)2号国道が新設されるまで国の幹線道路の役割を果たしていたと説明されている。ここが峠の頂上だ。
大山峠頂上
 ここから下り坂になっており、その先に「大山清水」がある。ここは「瀬野川支流大元谷川源流」と書かれた木柱が立っている。
 大山清水
 青い柄杓が置かれていたが、最近は好天が続いている関係からか水は流れていなかった。ただ水が流れた跡があり、これ以降道と水が流れる場所が同じような感じの場所が何カ所もあった。雨が降ると道が川になるのだろう。清水は流れていなかったが、伏流水があるのだろう、次第に水量が増えてきており、峠を下った頃にはかなりの水量になっていた。
  「伝大山刀鍛冶の墓」の石碑と案内板が立っている。芸藩通志に大山刀鍛冶の祖は筑前左の一派で建武年間(1334~37)に守安という人が移り住んだのが初代である。代々続いたが、最後の天正年間の宗重の刀が数振発見されており、その中には国の重要刀剣、県重要文化財指定のものもあるが、それ以外は発見されていないと説明されている。
大山刀鍛冶
 「旧山陽道 賀茂安芸郡境」の石碑が立っているが、横に傾いていて横の石柱で何とか支えている感じだ。
賀茂安芸郡境
 「旧山陽道代官おろし跡」碑が立っている。これはいかなる人であってもここで駕籠を降りたという場所だ。
 代官おろし跡
 すぐ後ろに大元谷川が流れているが、ここまで来るともうかなりの水量になっていた。
 すぐ横に「瀬野馬子唄発祥の地」の看板が立っている。
 すぐ横で安芸バイパスの工事が行われており、前方に工事中の橋桁が立っている。9時58分、大山峠を越える。昔は厳しい峠だったのかもしれないが、現在ではとても歩きやすい峠で、峠を越えるために要した時間は24分だった。
 右にカーブしている道を進んでいき、JRのガードを左折してくぐって2号線に合流、左折して進む。
 更にその先で2号線が右にカーブしているところで左手旧道に入って進む。
 このあたりは両側を山で囲まれた谷間で、その谷に川が流れており、それに沿ってJRと国道、そして旧道が併行して走っている。突き当たったところを左折、JRのガードをくぐって、その先で2号線を横断して進むのだが、このあたりは信号がないのだろう、車の流れが全く切れない。そのため2号線をなかなか横断できなかった。すぐ横に死亡事故の標識が立っていたが、たしかにこれほど車の流れが途切れないと無理をして渡り、事故を起こす人も出てくるだろうと思った。
 ようやく少し車の流れが途切れたので、大急ぎで走って2号線を横断する。左手川沿いに「旧山陽道 三本松」が立っており、二代目と書かれている。植えてまだあまり時間が経過していないのだろう。あまり大きい木ではない。
 三本松
 すぐ横を2号線が走っているので旧道はほとんど車が通らず、歩きやすい。
 やがて右折して清水第5踏切で一旦JRを越え、しばらく線路に沿って歩き、清水第7踏切で再びJRを横切る。
  右手に「龍善寺」がある。治安2年(1022)天台僧空心律師が開基し現在の本堂は明治13年(1880)の建立。ここの銀杏も見事だった。
龍善寺
 少し戻って2号線を横断し、再び旧道を歩く。その先下一貫田の信号で2号線を横切り、中原第1踏切でJRを越える。その先で辰の口第1踏切で再びJRを越えて2号線に合流。更にその先で左斜めに伸びる旧道を歩くというようにJR、国道を頻繁に横断して進む。瀬野駅近くにスーパーがあったのでここで昼食を食べる。これで今日は一安心だ。
 瀬野大橋東詰の信号で2号線を横切り、その先でJRを越えて進む。特にこれといって見るものもなく、のんびり、ゆったり、弛緩した気持ちで歩いていると右手に「鳥上の一里塚跡」の石碑が立っていた。これに北へ39.4mと刻まれていたので裏のほうへ回ってみたが、それらしい遺構は見つからなかった。
 鳥上一里塚
 瀬野川沿いに「中野砂走りの出迎えの松」が立っている。これはクロマツで街道に植えられた松の名残だ。「出迎えの松」の名前は当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を家来や村の有力者がこの松のあたりまで出迎えたことに由来していると説明されている。現在立っている松と松の間に小さな松の苗が植えられていた。これが大きくなるのはいつのことだろう。
出迎え松
 「春日神社」が右手にある。貞応2年(1223)に奈良の春日神社から勧請したことに始まるといわれており、現在の社殿は大正12年に豪雨と土石流によって倒壊、流失したので再建されたと説明されている。参道の鳥居、燈籠、唐獅子等には享保5年(1720)、寛保3年(1743)、文政6年(1813)、嘉永元年(1848)等の年号が刻まれている。
春日神社
 右手に「海田ふるさと館」があり、その奥に「古墳時代の竪穴式住居」が復元されており、7世紀前半から中葉にかけて築造されたという「畝観音免第1号古墳」や「畝観音免第2号古墳」があった。またここには広島県天然記念物に指定されている樹高30mに及ぶ大きな「海田観音免の楠木」が立っていた。
楠木 
 右手に「成木荒神社」と「恵比寿神社」が背中合わせに並んで立っている。これも珍しい構図だ。あまり見かけたことがない。何か意図があってのことなのだろうか、それとも単純に背中合わせに建てて、両方向から参拝できるようにしているのだろうか?
成木荒神社 
  海田宿も昔を偲ばせる造りの家が並んでいる。海田町役場の前に「熊野神社」が立っているが、ここの参道の階段に寄贈者の名前が刻まれている。「文政7年9月吉日 石段寄付者 木地屋保兵衛」と大きな文字が刻まれており、これがかなり目立つ。これもあまりほかでは見かけないことだ。
熊野神社石段
 左手にある海田公民館が脇本陣の跡だ。その先、左手に千葉住宅があり、これが海田宿本陣跡だ。
海田本陣
 ここでカウントする。
 14時54分、海田宿本陣跡を通る。
 西条宿から7時間49分、42444歩、26km。
 「明顕寺」がある。横の道から見上げたところに「銅製梵鐘」がある。これは享保年中(1716-1735)に海田の有力者三名によって寄進され、宝暦2年(1752)に再び同人によって鋳直されたものという説明がなされていた。
 明顕寺
 「海田市の一里塚跡」が立っている。
海田一里塚
 船越郵便局のところから右折して進むが、ここは旧道で道幅はあまり広くないのに、車が多く歩きにくい。
 その先で道を間違える。正専寺が右手にあるところで、右斜めに進む道と直進する道に分かれているところがあり、これを直進して急な坂を上っていった。坂を上ってしまった後、なんとなくおかしいので、近所の方にお聞きすると、間違っていることが分かった。柳ケ丘団地に紛れ込んでいたようだ。もう一度坂を下り、先ほどのところから右折して進み、改めて船越峠を越える。
  府中町へ入るが、途端に道幅が広くなり、歩きやすくなる。永田の信号で新幹線の高架下を通るが、ここに岩に地図を埋め込んだ珍しいものを見つけた。
岩地図
 直進して恵比寿神社の手前で左折、道なりに進んでいく。
  右手「法明寺」があり、そこの前に「尾長説教所」の原爆のときの写真が置かれていた。広島の中心地に入ってきたのだという感覚を改めて持つ。
法明寺
  「三本松」がある。ここは文禄2年(1593)秀吉が九州名護屋から大坂に帰る途中広島に立ち寄った際、この道路の左右に並木松を植えさせたという言い伝えがあり、古株三本が残っていたので三本松と呼ばれるようになった、また江戸時代歴代藩主が鷹狩りのとき、ここに陣幕を張り指揮の場としたと説明されている。
三本松秀吉
 今日の宿は街道から少し外れたところにあった。16時54分、ホテルに入る。

 本日の歩行時間   9時間49分。
 本日の歩数&距離 53659歩、34.8km.

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん