山陽道を歩く

2008年10月13日(月) ~2008年12月20日(土)
総歩数:977050歩 総距離:630.6km

2008年11月15日(土)

広島~廿日市~大野浦~JR広島

                                    晴れ

 ホテルから広島駅へ行って荷物をロッカーに置き、街道に戻って7時15分に歩き始める。
  「猿猴橋」がある。ここは16世紀末の毛利時代に木橋が架けられたことが始めで、現在の橋は大正15年(1926)に完成したものだ。
猿渡橋
 「猿猴」とは広島地方で猿に似た河童のような空想の怪物のことをいい、洪水の度に人々を川に引きずり込む猿猴が住む川として川や橋の名前に使われたと説明されている。
 橋を渡ると旧道が失われており、道に迷ってしまったが、右手の広島駅から伸びてきた大通りを渡って左折、「京橋町10番」の信号から右斜めに伸びる道が旧道だ。京橋を渡り、「橋本町6番11号」の信号の一つ先の角を左折して進み、左手少し先に徳栄寺がある通りで右折して進む。町の中心街はごちゃごちゃしていて分かりにくいところが多いが、このあたりもそうだった。アーケード街を進み、電車が通っている鯉城通りを越えて進むと右手に「県民文化センター」がある。
 広島の場合、城下町として本陣というものはなく、「御茶屋」と呼ばれる本陣の役割を果たす宿がここにあったということなので、ここでカウントする。
 8時7分、広島宿を通る。
 海田宿から2時間52分、16162歩、10.7km。

 文化センターの先、「紙屋町西」の信号のあたりが脇本陣があったところということだが、いずれも遺構は残っておらず、標識もない。
 元安橋を渡る手前に広島市道路元票(広島県里程元票)の碑が立っている。
廣島市道路原票
 その先右手少し行ったところに「原爆ドーム」が立っている。ここは大正4年(1915)に広島県物産陳列館として完工した建物で、昭和20年8月6日、ここから南東約160mの地点、上空600mで炸裂した忌まわしい原爆によって破壊されたものだ。何度訪れても粛然となる場所だ。
 原爆ドーム
 橋を渡って左手に平和記念公園があり、右手に原爆の子の像がある。この像の前で中学生のグループが平和祈念集会を開いていた。平和の誓いを述べる彼らを見て、あの事実を風化させることなく、しっかりと次世代へ引き継いでいかなければならないと思った。
 平和祈念集会
 右手に「天満宮」がある。ここは町内に度々火災が起こったため、町役人綿屋七衛門和孝、田中屋嘉三次幸福が文政5年(1820)天満宮を鎮祭した。原爆で倒壊したが、昭和21年に神殿を再建、昭和29年拝殿を再建した。社殿の礎石は被爆石という説明がされていた。境内街道に面したところに「ここは旧山陽道」という真新しい石碑が立っていた。
 天満宮
 右手に「延命地蔵」があり、女性が一心にお参りをしていた。ここもそうだが、このようにお地蔵様をお参りしている人は女性が多く、男性がお参りしている姿を見かけることは少ない。
 延命地蔵尊
  右手に「鷺森神社」がある。天徳年間(957~960)に勧請されたと伝えられる旧い神社である。昔はこのあたりは海辺の湾の東端にあたり、漁船の船着場として栄えたという。海人達は豊漁と海上の守護を祈願したと説明されている。
鷺森神社
 「海蔵寺」がある。ここは応永年間(1394~1434)に中国の僧、慈眼禅師が創建したといわれている。毛利時代には草津城主児玉家の菩提寺となり、浅野時代には東城浅野家の菩提寺となっていた。元治元年(1864)蛤御門の変が起き、広島藩の仲裁で幕府と長州の談判がここで開かれたということだ。墓所には北条氏直や山中鹿之助の娘盛江の墓があり、五輪塔が数多く立っている。また、庫裡山側には元禄年間に作庭された石組の庭がある。
海蔵寺五輪塔
海蔵寺石組庭

 右手に「小泉家」がある。ここは江戸時代終わりごろに建てられた酒造蔵で、天保の頃から酒造を始めて、今も厳島神社用のお神酒が造られている
小泉家
 街道を挟んだ前に「置鳳輦止所」碑が立っており、明治18年明治天皇西国巡幸と明治27年昭憲皇太后が宮島へ参拝されたとき、ともに小泉家で休憩されたことを記念して建てられたということだ。
小泉家明治天皇
 左手に「幸福稲荷」がある。建徳元年(1370)村内に火事が多発したので同3年(1372)小祠を勧請、お祈りをしたところ、それ以降火事は発生しなかったという。
 幸福稲荷
 「西楽寺」がある。ここは慶長16年(1613)第二世信了が開基した。本堂天井には江村直治画伯による、平安絵画の模写「阿弥陀聖衆来迎図」があると説明されている。
 西楽寺
 左手に「大釣井とお地蔵さん」がある。大釣井はいつ頃掘られたのか不明だが、慶長年間(1596~1615)の頃はこのあたりの住人の飲み水や用水になっていたことが想定されている。草津は何度も大火にみまわれたので、この大釣井は防火用として使われていたようだ。大釣井地蔵さんを祭ってからは大火はなくなったといわれているそうだ。
 大釣井
 左手に「大石餅の跡」がある。ここは平成10年に閉店したそうだ。また、大石があるが、昔の山陽道は城山が海岸まで突き出ていたので、大門を通ってこの大石のある海岸に出ていたものと思われる。このあたりは広島港を一望のもとに見渡せる景色のよいところだったので、旅人はここの茶屋で一休みして草津の名産である大石餅を食べ、次の旅への元気を出したものと思われると説明されている。
大石餅
  左手に五日市駅があり、その先で街道は左折するのだが、直進すると右手に「五つ神社」がある。祭神が五神あることから社名となり、五日市の出目となったといわれている。
五つ神社
 その先に「光禅寺」がある。ここは本堂・庫裡・山門・鐘楼・経蔵の典型的な伽藍配置を持つ旧佐伯郡最大の規模の寺院で梵鐘は延宝7年(1679)に鋳造したもので、佐伯区内で一番古い鐘ということだ。
梵鐘
 入口に「誓いの松」という樹齢350年の立派な松が立っている。延宝年間(1673~1681)備後国の石井兄弟は光禅寺の寺僧大忍に厳島仁王門での仇討ちを伝えたので、大忍は手助けして見事に成功させた。当寺を出立のとき、兄弟は戦勝の誓いをこめて山門前に黒松を植えた。それがこの松で後に人々は功績を讃え、「石井兄弟誓いの松」と呼んだ。
光善寺誓いの松
 街道に戻って進むと左手に松並木の名残の松が間隔を置いて5本立っており、各々1号松から5号松として樹高、幹周が記されていた。
 「西国街道壱里塚跡」という真新しい大きな石碑が立っている。「佐方の一里塚跡」ということだ。
佐方一里塚
 一本の松が立っており、「街道松」という説明がなされていた。以前は道の両側に3間(約6m)ごとに松が植えられて、68本の松があったということだ。
街道松
 右手に「廿日市招魂社」がある。境内に「明治天皇御駐輦遺跡」が立っている。明治18年西国巡礼の際、ここで休憩を取られたのだ。
 明治天皇駐輦
 右手高台に「廿日市天満宮」が見える。ここの一の鳥居の前、道を挟んだ前に「芸州廿日市御本陣旧址」という立派な石碑が立っている。
 廿日市天満宮
 ここでカウントする。
 12時39分、廿日市本陣跡を通る。
 広島宿から4時間32分、23739歩、14.1km。

 専念寺の道路を挟んだ前に「西国街道壱里塚跡」という真新しい石碑が立っている。「宮内の一里塚跡」だが、先ほどあった佐方の一里塚碑と全く同じ形の石碑だ。
 砂原大橋を渡って進むと30号線と旧道は何度も短い距離で交叉する。
 六本松団地入口の信号で30号線〈車道)を横断して進み、すぐ先で車道に合流。
 宮内工業団地入口の信号で車道を横切って北側へ出、そのすぐ先で左折して再び車道を横断し南側へ。
 その先でもう一度左側の旧道を進み、次に右側へ出て車道を横断。更に四季ガ丘南口の信号で車道に合流する。
 その先畑口橋の信号で右折する30号線と分かれて直進する。
 広島岩国道路の高架下を通ってこれに沿って進むと四郎峠に差し掛かる。
 ここは歩道がなく、トラック等の通行量が多いので歩きにくい。その先で高速の高架下を通って左折して進む。
 道を下っていくと右手に真新しい「おおの なかやま 疣観音堂」があり、その前に今川貞世(了俊)が足利義満によって九州探題に任ぜられ、その下る途中、中山を通過したときの歌、
 「とにかくにしらぬ命をおもうかな、わが身いそじにおおの中山、むかしたれ、かげにもせんとまくしいの おおの中山かくしるらん」の歌碑が立っていた。
 いぼ観音
 左手ガードレールの向こう側に「一里塚跡」碑が立っている。「中山一里塚跡」だ。
 中山一里塚
 Y字路に差し掛かるが、右手を直進する。これから先も常に右手を直進する。
y字路
 「十郎原」という案内板が立っており、伝説「大野五郎」の五人兄弟のうち末弟十郎が開墾したところとして十郎原の名前が残っていると説明されている。
 民家の間、路地のような道を通って進むと右手に「稲荷神社」があり、その前の細い道を進むと「三槍社」が右手にある。
 「大頭神社口末社寺の一つ、祭神葉山祇尊」と説明されている。
 三槍社
 更に右手に空き地があり、「この付近が伝説大野五郎の五人兄弟のうち、総領次郎の居宅跡」の案内板が立っている。
 ここから先、あぜ道のような山道を歩いていく。
あぜ道
 右手に「新宮神社」がある。ここは先ほどからよく出てくる「大野次郎」を祭った社で、地元では「新宮さん」とよばれ、崇拝されていると説明されていた。
新宮神社
 左手に「高庭駅家跡」「濃唹駅跡」の碑が立っている。ここは以前人馬乗継所があったということだ。
 高庭駅
 このあたりの道は両側を林で囲まれ、まだ15時を過ぎたところなのだが、もう薄暗い。ただ静かな山道で歩いていて気持ちがいい。一人の男性が散歩しているらしく、前方を歩いていた。
山間の道
 「高畑貝塚跡」があり、貝殻のほか弥生式土器の破片や約2000年前の人骨などが出てくると説明されていた。
 「高畑溜池」がある。文政8年(1825)編纂の広島藩の地誌「芸藩通志」に載っている大野では最も古い灌漑用溜池ということだ。
 中津岡川に架かる中津国大橋を渡って左折し、新幹線の高架下を通って進み、滝の下の信号で街道を離れて右折して進む。左手に長州戦争史跡「千人塚」が立っている。第二次長州戦争で出た多数の死者を葬ったということだ。
 千人塚
  その先、赤い鳥居をくぐって進むと「大頭神社」がある。ここは厳島神社の末社で推古天皇11年(603)に創建されたという歴史のある神社だ。山に囲まれた谷間に静かにたたずんでいる姿はとても風情がある。
大頭神社
 右手に「雌滝」(高さ50m)が見えるが、水は流れていないようだ。その先へ行くと「雄滝」(高さ30m)があり、ここには水が流れていた。ヒンヤリとした冷気が周囲を包んでおり、気持ちがいい。この二つの滝を合わせて「妹背の滝」と名づけられている。
 雄滝
 街道に戻るとすぐにJR大野浦駅があるので、今日はここまでとし、小倉へ引き返すことにする。

 16時7分JR大野浦駅に到着。

 本日の歩行時間  8時間52分。
 本日の歩数&距離 50600歩、32.1km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん