奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月11日(金)

一関~山目~平泉~前沢~水沢

                                  雨後曇り  
 今日は朝から雨。土砂降りではないのが救いだが、歩き旅にとってはいやな一日だ。7時23分に出発する。
 北上川に架かる磐井橋の手前に、松尾芭蕉が二晩宿泊をしたという「二泊庵」と呼ばれる屋敷がある。芭蕉はこの後、奥州街道から外れて宮城県の岩出山へ向かったので、奥の細道の奥州路での最北の宿になったという。
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 ここを一関宿としてカウントしようと思っていたのだが、ついうっかり忘れてしまって、橋を渡ってしまったところで気がついた。仕方がないのでその場所でカウントする。全体から見ればわずかな誤差だと思いますのでご容赦の程お願いいたします。
 7時41分、一関宿を通る。
 有壁宿から2時間22分、13606歩、8.8km。

 橋を渡った少し先に相撲取りの墓があり、碑が立っていた。
 第二十九代横綱宮城山福松となっている。説明文を読むと大正時代に活躍をした力士だったようだ。
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 山目宿の奥州街道と今泉街道の分岐点に「胡風荘跡」がある。ここには奥の細道標柱があると資料ではなっていたがわからなかった。後で資料の写真と現在の写真を見比べてみると、標柱がなくなっていることに気がついた。古くなって撤去されたのかもしれない。
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 山目宿は遺構が分からなかったので、JR山目駅前でカウントする。
 8時10分、山目宿を通る。
 一関宿から28分、2760歩、2.2km。

  雨は強くはないがシトシトと降り続けており、疾走する車の水しぶきが降りかかってくる。 平泉に到着するがここも遺構はないため、JR平泉駅のところでカウントする。
 9時9分、平泉宿を通る。
 山目宿から59分、6299歩、4.5km。

 毛越寺が左手少し入ったところにあるようだったが、雨も降っていることだし立ち寄ることをやめた。快晴であれば立ち寄ったかもしれないと思ったが、天候は人間の行動まで変えてしまうほど影響が大きい。
 「無量光院跡」がある。ここは藤原氏第三代秀衡が宇治の平等院鳳凰堂を模して建立したという。春秋彼岸のころ、無量光院の正面に立つと西方にある金鶏山の真上に日が沈み、まさしく秀衡が思い描いたこの世の極楽浄土だったと説明されている。今は何も遺構は残っておらず、ただ草地がひろがっているばかりである。
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 高館に「義経堂」がある。高館は北上川に面した丘陵で、平泉に逃げ落ちた義経は、藤原氏第三代秀衡の庇護の下、この高館に居館を与えられたことから判官館とも呼ばれている。しかし文治5年(1189)頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子泰衡の急襲にあい、この地で妻子とともに自害したと伝えられている。
 天和3年(1683)仙台藩主第四代伊達綱村が義経を偲んで建てた義経堂がある。
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 ここからの眺めは平泉第一といわれ、眼下に流れる北上川、前方に束稲山を見ることができる。またここには芭蕉の有名な「夏草や兵どもが夢の跡」の句碑があり、頼三樹三郎が弘化3年(1846)に平泉を訪れたときの感動を詠んだ詩碑も立っている。あいにくの雨だったがそれでも見晴らしのいい場所だった。2008041106 
 中尊寺があり、その入り口に「武蔵坊弁慶の墓」がある。
 文治5年(1189)義経の居城であった高館を焼き討ちされると、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立往生した。遺骸をこの地に葬り、五輪塔を立て、後世中尊寺の僧素鳥の詠んだ「色かえぬ私のあるじや武蔵坊」と刻まれた石碑が建てられている。2008041107 
 「中尊寺」には十数年前の冬に来たことがある。その時は夕方で薄暗くなってきており、雪まで降り出してきたので急いで回った。そのためあまり記憶は鮮明ではない。今回改めてみてみると立派な杉並木が続いている。
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 金色堂だけは明確に記憶に残っていたが、ここは撮影禁止のため見学だけで終わる。
 その他には文政9年(1826)に再建されたという弁慶堂があり、経蔵や旧覆堂そして「五月雨の降り残してや光堂」という芭蕉の句碑等があった。中尊寺境内の往時の伽藍群は寺塔40以上、僧坊300以上といわれた。金色堂は国宝指定第一号ということだ。
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 中尊寺の見物を終わり、4号線に沿って進んでいくと、大掛かりな工事がされており、道が新しくなっている。左側に旧道らしき道があったので、直進してその道を進むと衣川に突き当たった。あの有名な衣川の戦いの場所だ。ところが旧道の橋は取り壊されていて先に進むことができない。仕方がないので川に沿って右折して歩いていくと、先ほど見た新しい道路が一段高い堤の上を走っている。堤に登る道はどこにもない。この道路で橋を渡るとすると、先ほど分岐した場所まで戻らなければいけないのだが、かなりの距離がある。後戻りはイヤだという思いは二人に共通しているため、そのまま堤の土手を登り、フェンスを乗り越えて4号線に出ることにした。土手は構築したばかりで地面はまだ固まっていない。しかも雨が降っているのでズルズルだったが、委細かまわず登ってフェンスを越え4号線にでた。靴にはべとべとの土がこびりついたが、それでも後戻りするよりはよかった。でもこんな行動は決していいことではないということは理解しています。ハイ。
 旧道の橋も残しておけばいいのにと瞬間思ったが、そうすると維持管理のコストがかさむので撤去したのだろう。
 瀬原の信号のところで4号線から分かれ平泉、前沢ICの下を潜り抜けていく。ここも旧道は失われており、迂回して工業団地の中を通って行くと道は下り坂になっていく。
 「西岩寺」があったので階段を登ってみる。ここには五百羅漢があった。
 文化2年(1805)、当時の九世唯峯不白禅師が弊履一杖を頼りに諸国を行脚して勧請したもので、その彫りは精巧を極めており、彩色も妙を尽くしている。昭和24年にその大半が焼失したが、残った28体には往時の盛観が偲ばれると説明されていた。上がってみると本堂らしきところがあった。誰もいないのでガラス戸をあけて中を見てみたが、28体は分からなかった。とりあえず本堂の写真のみを撮らせていただいた。
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 前沢宿に入ったところで昼食にする。前沢牛が有名なので焼肉を食べようと思って一軒あった店に入ったが、靴を脱いで座敷に上がらなければならなかった。雨の中を歩いてきたので靴下が濡れていることもあり、入るのをあきらめ、その先にもう一軒あった食堂で昼食にする。
 前沢宿で食事をする店はこの二軒しかなかったようだった。
 前沢宿の本陣は「太田家」という家で立派な造りの家だ。太田家では初代から4代まで当主は幸蔵を襲名、五代目は幸五郎と続くことから、「太幸邸」と呼ばれているということだ。岩手県指定有形文化財に指定されている。主屋、表門、前座敷、炊場は日露戦争後の不況、大凶作という時代を背景に材料、職人のほとんどを地元で賄う救済事業の一つとして、明治43年に五代目当主幸五郎により建設されたという。苦しいときにはお互いに助け合うという風潮があったということの証であり、またそれができるだけの財力を有していたということなのだろう。
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 13時32分、前沢宿本陣跡を通る。
 平泉宿から5時間3分、20100歩、12.4km。

 ここまで来て雨は止んだ。前沢を出てしばらく歩き、丑沢の交差点で4号線と合流する。小山のバス停の少し手前左側に立派な長屋門の家が二軒並んで立っていた。まだ民家として使われているようだったが、歴史を感じさせる造りだった。
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 折居町のところにちょっとした桜並木があり、その先に「奥州街道と桜並木」と書かれた表示板が立っていた。
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 桜はまだいずれもつぼみで開花宣言も出ていないのではないかと思うような状態だった。右手にあまり高くはないが、北上山脈が連なっており、左手には雪を被っている山が見える。何という山だろうと話をしていると、女性の方が通りかかったので尋ねてみた。そうすると焼石連峰(1548m)ということだった。この女性とは同じ方向に歩いていたので、少しの間話をしながら歩いたが、この方は以前はハーフマラソンにも出場されていたということだった。
 「真城一里塚跡」がある。ここは仙台から30番目の一里塚で両塚残っていたのだが、昭和44年の国道4号線バイパス工事で東塚が撤去された。塚木は杉だったが落雷で枯れ、現在では大きな根元だけが残っている。
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 やがて奥州市水沢市街地に入ったが道が良く分からない。これはこれから先もそうだったが、市街地に入ると旧道が失われていることや、残っていても道が入り組んでいてわかりづらかった。
 マゴマゴしていると女性が通りかかったので尋ねると、今日泊まる青木旅館まで一緒に案内をしてくれた。東北地方の皆さんは本当に親切だ。

 宿には16時39分に到着する。

本日の歩行時間   9時間16分
本日の歩数&距離  48352歩、33km。

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