奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月23日(水)

青森~JR浅虫温泉~野内~青森~後潟~JR青森

                                    曇り 

 青森からJRで浅虫温泉まで戻って歩き始める。駅に着いたところで昨日お会いしたガイドの下田さんからHPに書き込みがあり、これに返信して8時5分に歩き始める。
 浅虫温泉の本陣跡は線路の向こう側にあり、昨日行ったので寄らずに海岸沿いの道を歩く。今日は曇り空、温度表示は11℃を示しているが今日も風が強く、体感温度はかなり低い。ただ、今日は青森に連泊するのでホテルに荷物を置いてきており、身体は軽い。
 善知鳥(ウトウ)トンネルの入り口横に「古戦場の碑」がある。このトンネルのあたりを「善知鳥前」、海に突出した先端は「善知鳥崎」と呼ばれている。吾妻鏡によるとこの場所は、「外ケ浜と糠部の間にある有多宇末井之梯(ウトウマイノカケハシ)」と記録されているように南部と津軽の境であった。この地は「往来険阻の地」で、「怪岩波に洗はるる山下の小径に梯を掛け、恐怖戦慄しつつ辛うじて通過した」と記録に残されている。 越後(現、新潟県)の親不知、子不知と共に二大険路といわれた場所だ。
 文治5年(1189)に平泉藤原氏が源頼朝に滅ぼされ、藤原氏の残党、大河兼任等が鎌倉軍に対して最期の防戦地にしたところとなっている。
2008042301 
 観音寺通りというバス停があり、ここから4号線と分かれ、右斜めに進むと右手に「観音寺」がある。桜が満開だ。今日はどこの桜も満開だった。我々の歩きに桜前線が追いついてきたのだ。
2008042302 
 「川上神社」があり、その入り口のところに嘉永元年(1848)に立てられた庚申塔があった。
2008042303 
 浦島のあたり、峠の頂上の右手、小高いところに「明治天皇御野立跡碑」が立っていた。
2008042304 
 「野内番所跡」がある。ここは盛岡(南部)藩に対する番所として、秋田藩に対する碇ケ関、大間越とともに津軽三関と呼ばれたところである。通行者数は時代や季節によって多少はあるものの、藩庁への報告書によると享保2年(1717)から同6年までの月平均片道通行者数は100人程度であったと説明されている。一日ではなく月に100人だ。随分さびしいところだったのだろう。
2008042305 
 ここでカウントする。
 9時30分、野内宿を通る。
 浅虫宿から1時間25分、9695歩、5.9km。

 ここで休憩を取っていると中畑さんといわれる86歳の方がこられて野内の説明をしてくれた。このあたりは沢山の松が植わっていたが、戦争中に松から油をとるために皆切られてしまい、今では一本を残すのみとなっていること。ここには油槽所タンクがあり、戦争中は攻撃目標とされて爆撃されたこと等々を教えていただいた。
 中畑さんは以前、郷土史の勉強会をやっておられたということだったが、まだかくしゃくとされていて、この土地のことに関してとても詳しかった。今回の旅はこういった方とお知り合いになるケースが多く、非常に参考になった。
2008042306 
 野内小学校前に街道の名残を感じさせる松並木が何本か立っていた。
 野内橋を渡り、「とき歯科」のところから左斜めに進み、最初の十字路を右折して進む。
 左手に保健所があるところで右斜めに進み、そのまま直進すると合浦公園がある。旧道はこの公園の真ん中を貫いている。この公園は弘前藩のお抱え庭師だった水原(旧姓柿崎)衛作と巳十郎の兄弟が、時の県令山田秀典の支援で明治14年(1821)に工事に取り掛かったのだが、明治15年県令が急死したため、募金が停滞し大変な状況になった。しかし責任感の強い水原は家族と共に市内から園地に移り住み、一家を挙げて開墾に従事した。遂に衛作は過労のため倒れ、財産をずべて公園造りにつぎ込んでいたため、十分な治療も受けることができず、44歳で亡くなってしまった。それでも衛作の母は弟の巳十郎を叱咤激励して明治27年に遂に完成させ、これをことごとく当時の青森町に寄付したということだ。昔の職人気質を如実に表した事例ではないだろうか。
2008042307 
 ここには多数の松があり、往時の松並木の面影を残している。その中には「三誉の松」と呼ばれる樹齢470年を超える松があり、歴代の弘前城主がここで野宴を開き、藩主自ら古樹に酒を献上したといわれている。 
2008042308 
 また桜も数多く植えられており、丁度満開ということもあって、大勢の花見客が出ていた。
 公園を出てY字路の左側を直進し、旭橋を渡って進むが、このあたりも市街地で、これまでもあったように分かりにくく、旧道を正確に歩くことができたかどうか定かではない。
 「善知鳥神社」があり、ここに「奥州街道終点記念の碑」が立っている。
2008042309 
 我々は奥州街道の終点は三厩と思っていたのでこの碑を見て驚いた。後で調べると諸説あって、ここを奥州街道の終点とし、この先は松前道、外浜道などと呼んで区別していることもあるようだ。南部藩と弘前藩の確執も背後にあるようだが、とりあえずここにこういった碑が立っていましたということを記載しておきます。
 ここを青森宿としてカウントする。
 12時8分、青森宿を通る。
 野内宿から2時間38分、12222歩、8.4km。

 ここから青森駅の方向に向かうが、駅のすぐ右手に青函連絡船として活躍をした八甲田丸が係留されているのでそれを見に行く。すぐ横に戦争中に米軍の攻撃を受けて数多くの連絡船が沈み、乗員が犠牲になったことを記した碑が立っていた。
2008042310 
 青森駅構内の食堂で昼食(ちなみにここでもホタテを食べました)。その後、駅横の跨線橋を渡って線路の反対側に出る。跨線橋を下って右方向へ行き、最初の角を左折する。右手に大きなマンションが立っていた。
 そのまま直進していくと、右手に森林博物館が立っている。
 みちのく銀行の看板が立っているところから右方向へ進み、280号線に合流して左折して進む。
 しばらく歩いていると、前に停まっていた車から降りた方がこちらのほうへやってきた。この方は「元気町あぶらかわ街づくり委員会」の事務局長をされている中崎さんだった。鐙さんからご連絡を受けて、もうそろそろこのあたりを通るころだと思って待っていたとのこと。こちらのほうが驚いてしまった。それにしても鐙さんのネットワークはすごい、東北中に張り巡らされているようだ。
 ご挨拶をした後、一旦別れて我々は「淨満寺」へ行く。ここには江戸時代初期の遊行僧円空の作といわれる木彫釈迦牟尼如来坐像があり、また青森の開港奉行を勤めた森山弥七郎の墓所もあるとされている。
2008042311 
 境内、本堂裏手に天明3年(1783)の飢饉での死者を埋葬したといわれる「千人塚」がある。
 「油川沿革誌」には天明4年の項に、去年から今年までこの町の餓死した人300人、食を求めて居なくなった人400人、遺体があちこちの道ばたに三々五々横たわっていても手をかけるものがいない。見かねた代官は淨満寺裏に大きな穴を掘らせ、ここに懇ろに埋葬させたと書かれている。
 天明飢饉では津軽藩全体で約82000人が餓死したといわれ、油川とその隣の後潟地区でも全住民18600余人の3分の2が死んだという。今では想像もつかない惨状だったのだろう。2008042312 
 ここから少し歩いた街道右側に西田酒造があり、その前に「羽州街道、松前街道合流ノ地」という碑が立っている。またその横に「この合流の地に夢を託して」という看板が立っている。それによると、「ここはみちのくの主要道、羽州街道の終点であり、松前街道の起点でもあった。かっては制札場もあり、馬の蹄の音や、旅人が交わす話し声でいつも賑わっていた。しかし明治4年(1871)新城青森間に直通道路が通され、ここを通る人馬の列は急に途絶えた」と記載されている。
 青森の善知鳥神社には奥州街道の終点の碑が立っていて、そこから以北は松前街道となっていたが、ここではこの地から三厩までが松前街道となっている。
2008042313 
 ここでカウントしなければいけないのだが、歩数を記すことを忘れていたので時間と距離を記しておきます。
 14時38分、油川宿を通る。
 青森宿から 2時間30分、5.9km。

 ここに先ほどの中崎さんと「元気町あぶらかわ街づくり委員会」の委員長をされている木村さんが待っておられた。先ほどの「この合流の地に夢を託して」という文章を書かれた方が木村さんだった。ここで奥州街道、松前街道のことなどについてお話を聞く。木村さんのお話では青森が奥州街道の終点で、松前街道はこの場所から始まるので、青森~油川間は街道の名前はないということだった。また、仙台の夜の激励会で話が出た「田酒」の醸造元である西田酒造がすぐ前にあるので、ここで「田酒」を買おうと思っているというと、その酒は昔から醸造する石高を変えていないので中々入手できないということを言われてしまった。醸造元にいけば簡単に入手できると思っていたのだが、甘かった!ここで一旦は購入をあきらめたのだった。
 しばらくお二人からお話を伺ってお別れする。
2008042314 
 歩いていると前から来たタクシーが停まり、中から運転手さんが話しかけてきた。「歩いているのですね。新聞で見ました。竜飛岬は26日でしたね」と言われる。更にその先で二人の方が立っておられ、「頑張ってください」と声を掛けられ、「あのような感じで歩いているのだね」というような言葉が聞こえてきた。もっともこれはこの地方の言葉だったので、そのままの言葉で書くことはできませんが・・。そのすぐ先に小学校があり、校庭の道沿いに小学生と先生が並んで立っていて、「こんにちは」「青森からですよね」「いや、仙台からだよ」というような声が聞こえてきた。その他にも車の中から笑顔で会釈される方もおられた。皆さん新聞を読まれているのだ。新聞の威力はすごい!そしてこうして声をかけられることがなんとなくうれしい。単純なのです。
 今日の予定ではJR後潟駅まで歩くことにしている。ここはこの時間帯はJRが一時間に一本の割合しかなく16時49分の次は17時44分だ。こうなるとどうしても16時49分に乗りたい。地図を見て距離を計算するとどうもぎりぎりのようだ。一つ手前に左堰という駅があり、後潟との間に距離はあまりない(後で調べると1.6kmだった)。ここだと余裕で着くのだが、折角立てた予定なので何としてでも後潟まで行きたいと思い足を速める。一歩踏み出すたびに足のマメがズキンと痛むが、そんなことはかまっておれない。それに今日は荷物を持っていないことも幸いした。三好さんも健脚なので同じペースで歩いている。とにかく急ぐ。もうこうなると他から話かけてこられて時間を取られたくない。なんとも身勝手なものだと我ながら思う。
 六枚橋を渡ると「昇竜の松」がある。
 このあたりに赤平家があり、代々松前藩が参勤交代のときに宿泊所をつとめた家柄である。藩主はその業績を讃えて日々愛観していた黒松の盆栽を一鉢送りその労をねぎらったという。その後現在地に移植されたということだ。
 樹勢が強くて現在も衰えを見せずに成長し、その上、樹形は竜が天に昇るような威容と、樹皮も龍のうろこのようであることから「昇竜の松」と呼ばれるようになったと説明されている。
 樹齢約500年、幹囲3.1m、樹高4.4mと立派な松だ。
2008042315 
 これ以降わき目も降らずに歩き、なんとかJRに間に合って青森へ戻る。無事予定は達成できた。ヤレヤレだ。
 三好さんの息子さんが以前仕事の関係で青森におられたそうで、夕食は息子さんから教えてもらったすし屋へ行って食べる。ここでも隣に座ったお客さんから「新聞に出ていた二人なの?」といわれてしまった。
 食事といえば、三好さんは大変な健啖家だ。朝食は大体三杯は食べられるし、おかずも残さずきれいに平らげてしまう。あのパワーの原動力はこんなところにもあるのだろうと思った。

 本日の歩行時間   8時間44分。
 本日の歩数&距離  48915歩、31.4km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん