奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月20日(日)

五戸~伝法寺~藤島~七戸

                                  曇り後晴

 7時25分に出発しようと外にでると、昨夜マッサージをしてくれた方がご自分で作られたお菓子を持ってきて、出発を待っておられたので驚いた。二人分のお菓子をありがたく頂く。
 もう一人、昨日取材でこられたデーリー東北新聞社の澤田支局長が写真を撮るためにこられていた。 幸い雨は止んでいる。澤田さんは写真を撮る場所を探して、先に進んでおくといわれてとりあえず別れる。
 「江渡屋敷」に行ってみることにする。ここは街道から少し外れたところにあるので、地図を見ながら歩いていく。右手に立派な屋敷が生垣の向こうに見える。「立派な屋敷ですねぇ」と言いながらそのまま進んでいった。しかしいくら行っても江渡屋敷がないので,通りかかった方に尋ねると、先ほど見た立派な屋敷がそれだといわれたので引き返す。ここは天明年間(1781~1788)に飢餓救済事業として建築されたと説明されていた。前沢宿の「太幸邸」が日露戦争後の不況対策で工事が行われたことと同じような趣旨によるものだろうと思った。
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 ここを見物後、すぐ近くにある代官所跡を見る。ここはきれいに再現されている。
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 ここでカウントする。
 7時47分、五戸宿本陣跡を通る。
 三戸宿から7時間42分、34704歩、20.1km。

 ここも街道から少し入ったところにあるので街道に戻り、青森銀行を左手に見ながら進むと、道は下り坂になっている。郵便局の手前の角で左折するとY字路になっている。迷ったがとりあえず右側の上る道を歩いていった。しかしどうもおかしいので元に戻ってY字路の左側の道、下り坂を下っていくと橋に出た。
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 ここに澤田さんが待っておられ、写真を撮っていただく。それにしてもこの僅かな間に2回も道を間違ってしまった。三好さん曰く「休みボケだぁ」。全く同感だ。
 橋を渡ってすぐに左折し、更に右折していくと道は一直線になる。右手に「明治天皇の草取天覧御聖輦の碑」が立っていた。
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 左手に五戸斎場がある前を進むと前方はヤブ道になっている。木杭で矢印が示されているが、歩くことができそうにないと判断し、車道を歩くことにする。ところが歩きながら右手を見ていると、どうも先ほどの道が続いているようなので途中からその道に入ってみた。確かに道がついており、一応歩くことができた。しかし入ったところからすぐ先で道は4号線に合流していた。ここからしばらく4号線を歩くが、十和田市に入ったところで青森まで84kmの表示が出ていた。遂に残り100kmを切ったのだ。もう一息だ。
 今朝、出発するときは曇っていたが、次第に晴れ間が見えてきた。
 こうなると歩いていると暑い。道路の温度表示は9時で12℃を表示していた。
 やがて伝宝寺小学校の少し先で右斜めに進む道があり、そこから伝法寺の集落に入る。昨日4号線を車で通った際、4号線に面した所に伝法寺の館跡の碑が立っているのを見ていた。集落の方にお聞きすると、先に赤い鳥居があり、そこから左折して4号線に出て行くとあるということだった。
 4号線に出ると伝法寺のバス停があり、右折して歩くとすぐに伝法寺館跡の碑が立っていた。
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 ここでカウントする。
 9時35分、伝法寺宿を通る。
 五戸宿から1時間48分、10478歩、7.1km。

 ここから少し先で4号線から別れて旧道に入るが、入り口は分かりにくい。昨日、赤坂さんからあらかじめ教えていただいていたので、非常に助かった。4号線に十和田市街への分岐まで300mという表示が出ているところから、左へ入って直進していく。
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 ここは私有地ということで、昨日赤坂さんが我々がここを通るということを土地の所有者に断りを入れてくれていた。
 轍の残る道を進むと犬が2匹いて、激しく吠え掛かってきたのは昨日と同じだ。昨日もきたのだから顔ぐらい覚えておけよ、と声を掛けながら歩いていく。
 「伝法寺一里塚」がある。道からは一つしか見えないが、その奥にもう一つ塚が残っているそうだ。昔の道はもっと上のほうを通っていたようだ。
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 一里塚を過ぎると間もなくY字路になる。昨日はここを左へ進んだのだが、我々と別れた赤坂さんがもう一度確認して、右へ進む道が正しいと電話を入れて頂いた場所だ。このあたりは完全な農道で歩いていて気持ちがいい。途中でもう一度Y字路があったが、これも右方向へ進んでいく。
 左手に薄く霞んでいるが八甲田山(1584m)が見えてきた。雪を被っている。まだ若かった頃に新田次郎の「八甲田山死の彷徨」を読み、一度八甲田山を見てみたいと思った記憶があるが、今こうしてみることができているのだ。残念ながら今日は霞んでいてボンヤリとしか見えなかったが、それでも姿を見ることができただけでもよかった。
 途中左手に「馬頭観音」があった。すぐ横に移設記念の碑が立っていたのでどこかから移設してきたのだろう。
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 旧道を抜けて4号線に合流するところにラーメン屋があり、そこを過ぎたところで東奥日報社の藤田記者が追いかけてきた。ここでしばらく取材を受け、再び歩き始める。
 左手に「明治天皇駐輦跡碑」がある。
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 ここでカウントする。
 10時58分、藤島宿を通る。
 伝法寺宿から1時間23分、4922歩、3.9km。

 奥入瀬川に出る。上流200mのところに渡船場跡があると資料に出ていたのだが、どちらの河岸にあるのかが分からない。とりあえず渡る前の川土手を歩いてみたが見当たらない。前方の岸を見ているとそれらしき物が立っているので、橋を渡っていってみる。この橋は御幸橋という名前がついている。以前ここには橋が架かっておらず、渡し舟で川を渡っていた。ところが明治9年に明治天皇の東北御巡幸が行われることになったため、急遽6月6日に架橋工事を始め、7月12日の陛下御通御に間に合わせたと説明されている。おそらく昼夜を問わぬ突貫工事だったのだろう。
 川を渡って川土手に沿っていくと舟渡場跡と書かれた木杭が立っていた。
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 ここから畑の中のあぜ道を通って進むと突き当たりに太子食品という食品工場があった。ここを左折して進み、最初の三叉路を右折して小さな橋を渡っていくと4号線に合流する。このあたりから十和田の市街地に入っていく。
 「一本木の一里塚」がある。すぐ横に大きなスーパーが出店しており、その出店の際、木の枝や落ち葉等でトラブルが起きてはいけないということから塚木は丸裸にされていた。その姿はなんとも哀れである。
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 十和田の市街地は道路がきれいな碁盤目状になっており、京都を思わせる。4号線は真っ直ぐに伸びており、それに従って歩いていく。
 街道から少しそれるが「新渡戸記念館」があるので行ってみた。三本木原十和田市の開拓の祖である新渡戸傳翁、長男十次郎氏、孫七郎氏の三代に渡る、開拓資料や遺品のほか、十次郎氏の三男である稲造氏の蔵書他遺品の数々を永久に保存するために十和田市が新渡戸家の協力により建設したものと説明されていた。
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 またここには「明治天皇三本木行在所碑」が立っていた。明治天皇は二度の東北御巡幸に際し、いずれも新渡戸邸でお休みあるいはご宿泊されたと説明されていた。
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 街道に戻り昼食を食べて歩き始めたが、人通りが少ない。今日はたまたまなのだろうか、それともいつもこのような状況なのだろうか。十和田市のメインストリートなのだろうが、日曜日の昼というのにこれでは商店は大変なのではないだろうかと、ついいらぬことを考えてしまう。
 市役所近くの通りは昨日、赤坂さんに案内をしていただいたがきれいな桜と松の並木道が続いており、中々に素晴らしいものだった。あと一週間遅く来て桜がもう少し咲いていれば、もっときれいだっただろうなとちょっと残念に思った。ここは日本の道100選に選定されている。
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 「土手山の欅」がある。樹齢推定300年、樹高26mのこの欅は、松前藩主が参勤交代の折に植えられたといわれている。当時相坂から洞内茶屋までの奥州街道沿いの風雪の強く当たる場所に土手を築き、松や雑木等を植えた。その土手が最近まで残っていたので土手山の名称が生まれたと説明されている。2008042016 
 「真登地の一里塚」がある。この一里塚は「ニモリ」の俗称で親しまれていたが、昭和30年代に用水路建設のため、西塚を失っている。
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 池ノ平あたりに松並木がある。奥州街道で残っている松並木は少ない。
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 「池ノ平一里塚」がある。ここは両塚が残っているが一部破損している。しかし一里塚本来の姿が良く保存されていることから、昭和36年に県の史蹟に指定されている。
 ただここはモーテルの入り口、同じ敷地内のような場所にあった。折角の遺跡なのだから、もうちょっとなんとかならないものだろうか?
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 ここに先日からご連絡を頂いていた、東北町の田中さんが子供さんを連れて待っておられた。ここで今夜のお誘いを受ける。
 七戸宿に入ったところで道に迷う。一昨日の五戸と同様、町中に入ると道が分かりにくい。
 七戸宿は遺構が残っていないので町役場前でカウントする。もっとも役場前を旧道が通っていたのかどうか今もってわかっていません。
 15時48分、七戸宿を通る。
 藤島宿から4時間50分、22889歩、15.5km。

 ここから今日の宿である東八甲田温泉までかなりの距離があった。
16時40分に到着する。

  夜、田中さんが迎えにきて下さり、車で天間林の下道(本道)を案内をしていただく。天間林の奥州街道は二手に分かれ右斜めに進むのが下道(本道)、左斜めに進むのが国道4号線と重なる野辺地への近道ルートだ。左右どちらとも奥州街道だが、地元の人々は近道ルートを行き来するのが普通だったらしく、参勤交代や幕府巡見使などの公式ルートは下道だったということだ。天間林の一里塚は大きな塚木が残っており、周囲は木の枠で囲まれていた。周囲はすでに真っ暗でよく分からなかったが、人家のない道をひたすら車で走り、蒼前平の一里塚も案内していただいた。
 その後、かやぶき家屋「まなか」に案内をしていただく。ここはNPOアルキメデスが町おこしをしようと運営をしているそうで、約78坪の建屋で馬屋、土間、居間、座敷、台所という造り、ちょっと昔へタイムスリップ、とパンフレットに書かれている。「まなか」は「日本中央」から取った言葉で、「日本中央」とは平安時代、時の征夷大将軍が蝦夷征伐に北上し、陸奥の最奥の地、都母(つも)の地に、大きな石の石面に矢じりで「日本中央」と彫り建立したとされているが、そこから作った言葉ということだった。
 ここにこの日は田中さん、鳥谷部さん、中村さん、荒木さん、本間さん、倉岡さんといった方々が集まり、食材、酒は各自が持ち込み、その場で調理をし、炭火で焼いて食べるという趣向を凝らしたものだった。メンバーは特に固定されていないようで、今日初対面の挨拶を交し合う方もおられた。この場の皆さんは街道とは特に関係はないということだった。
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 ここでしばらくおいしい料理とお酒をご馳走になり、タクシーを呼んでもらってホテルに帰る。もっとゆっくりしたかったが、旅はまだ続くので早めに失礼する。

本日の歩行時間   9時間15分
本日の歩数&距離  47520歩、33.3km。

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