奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月17日(木)

一戸~二戸(福岡)~金田一~三戸

                                    晴れ

 朝4時過ぎに地震があった。かなりの揺れだったようで目が醒めたが、でもすぐまた寝入ってしまっていた。7時30分に出発。JR一戸駅のあたりの細い道を回って274号線に出て歩く。
 一戸宿には古い建物はあったが、明確な遺構がないため万代橋手前の郵便局のところでカウントする。
 7時46分、一戸宿を通る。
 沼宮内から10時間4分、41449歩、33km。

 「実相寺」には国指定天然記念物の公孫樹(イチョウ)がある。
 樹齢280年、樹高25mとイチョウとしてはさほど大きくはないものの、雄株でありながら小枝の一部に雌花がつき、毎年葡萄房状の実をつけている。
 イチョウの雌株が少ないことから、実を取る目的で接木をすることはあるが、ここのイチョウは接木をしていないのに、雄株の一部に実をつける珍しいイチョウと説明されている。
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 「小井田の千本桂」がある。これは雄株で、数mの高さの幹まで含めると、22本からなっている株立ちで、根元周囲が約18m、樹高約20m、枝張り南北に約30mの大木。樹齢700年ほどと推定されており、一戸町の指定天然記念物になっている。2008041702 
 「末の松山のみち」「美しい日本の歩きたくなるみち500選」と書かれた看板のところから波打峠に入ると、約20分ほどで「波打峠一里塚」がある。ここは盛岡から北に15番目の一里塚で両塚が残っている。
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 一戸町もまた一里塚が多く残っており、それは奥州街道とは別なところに国道が作られたため、昔の姿が現在まで残っていると説明されている。
 浪打峠には「交叉層」がある。これは海水の中で砂や軽石、火山岩の粒、さらにはホタテ貝などの破砕片が堆積したもので、美しい縞模様を描いている。
 この地層は「末の松山層」といわれ、海底火山の噴出が盛んであった時代に海水の中で堆積した「末の松山層」の上部の地層で、今から1500万年前に堆積したものと考えられており、国の天然記念物に指定されている。
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 この横に「明治天皇御野立跡碑」がある。ここには山下水といわれるものがあり、これを使って野立てが行われたので、その後この水は御膳水と呼ばれる名水となったと説明されており、その横に山下水の碑も立っていた。今でも湧き水が流れていた。
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 ここで資料を集める際お世話になった、二戸市教育委員会埋蔵文化財センターの関所長に電話を入れると、九戸城に行く用事があるのでそこで会いましょうということになった。
 峠を下っていくとすぐ横を雉が歩いている。写真に撮ろうと思ってカメラを出して近づいたところで逃げられてしまった。こうした偶然出会った野生動物を写真に撮るのはとても難しい。
 「桜清水地蔵尊」がある。これは天保4年(1833)日向国臼杵郡岩戸町(現在の宮崎県西臼杵郡高千穂町)の新作という人が、旅行者の安全を祈願して建立したもので、お堂の脇から湧きでる清水は旅人の喉を潤したと説明されている。しかしそんなに昔、遠く宮崎の人がはるばるここまで来て、こうした地蔵を建立するとはいかなる事情があったのだろうかと思う。
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 ここから少し先で旧道に入る。ここは舗装された道とほぼ併行に走っているが山道だ。
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 九戸城への曲がり角が分からず少し遠回りをしたようだが、それでも無事関さんとお会いすることができ、九戸城を案内していただいた。
 ここは天正19年(1591)九戸政実が同じ一族である南部信直に対し兵を挙げるが、南部信直が豊臣秀吉から領地安堵をとりつけたことから、九戸政実の反乱とみなされて攻撃をされた。しかし堅固な九戸城を攻め切れず、豊臣秀吉は助命を条件に九戸政実に開城させた。しかしこの約束は反故にされ、城内に居たものは皆惨殺されたという。その後南部信直が三戸城から居を移し、九戸を福岡と改めたが慶長2年(1597)盛岡築城が開始され、寛永13年(1636)九戸城は廃城になった。ここの石垣は朝鮮征伐の際にテストケースとして構築されたそうで、いまでも当時の姿を残している。
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 この後文化財センターを訪問し、関さんからこれから歩く道に関してお話をうかがう。
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 文化財センターから旧道に戻るまで関さんに車で送っていただき、再び歩き始めると左へ下る道があるのでこれを下って岩谷橋の下を通る。この坂を馬助坂といい、馬車や馬そりが難渋した際、人足や博労が馬を助けながら上がったことに由来すると説明されていた。このあたりは九戸城三の丸の一角であったとも説明されている。
 右手に「岩谷観音堂」がある。白鳥川が大洪水になった折、岩の上に夜々光が生じ、藤蔓に引っかかっている観音様が発見されたので、岩壁に洞窟を掘り御堂を建ててこの観音様を祭ったといわれている。古くは観光上人によって設定され、寛保3年(1743)八戸天聖寺の則誉守西上人によって「奥州糠部三十三所観音霊場巡礼」第二十番札所に選ばれるなど、古い歴史を持っている。平成7年に市有形文化財に指定された十一面観音菩薩像と阿弥陀如来像の二体が納められているが、御開帳は百年に一度と説明されていた。
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 坂を上り二戸大橋を渡っていくとホテル村井があり、そこに「明治天皇御駐輦の碑」が立っている。
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 ここでカウントする。
 11時28分、福岡宿を通る。
 一戸宿から3時間49分、
 13957歩、7.9km。

 「八戸追分石」がある。八戸道、三戸道と刻まれている。これは安永元年(1772)に立てられた八戸街道起点の道標だ。
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 仁左平のところを歩いていると右手の山のほうで煙が上がっているのが見えた。何だろうと思いながら歩いていくとオバサンが立っていてそちらのほうを見ている。山火事だという。つい先日も山火事が発生したといっていた。空気が乾燥しているのだろう。そういえば山火事の注意を促す有線放送が各地で聞こえていたことを思い出す。
 金田一宿にくるが、ここも遺構は残っていないためJR金田一駅のところでカウントする。
 14時17分、金田一宿を通る。 
 福岡宿から2時間42分、10357歩、6.6km。

 しばらく線路に沿って歩いた後、小野道踏切でJRを横断して山手へ入っていく。
 右手に「姉滝」がある。最初は道から右手に少し入ったところへ行き下から滝を眺めたが、その後もとの道に戻っていくと、右手すぐのところに祠があり、その横から滝を上から眺めることができた。この滝は落差約15mあり、市内では最も落差のある滝ということだ。この滝に打たれると美人になるといわれているそうで、ご神体は蛇といわれ、雨乞いの神様と説明されている。
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 ここからが今日の難所となる場所だ。特に野々上のほうへ行くと困るので、一つ一つ曲がり角を二人で確認しながら進んでいく。ところがその一番注意をしていた道へ入り込んでしまっていたのだ。どうもおかしいということになり、ちょうど畑で農作業をされていたご夫婦にお聞きすると道を間違っていることがわかった。このお二人にはとても親切にそして的確に道を教えていただいたので非常に助かった。
 15時をすでに大分過ぎており、これから難所といわれる蓑ケ坂を越えなければいけないので気が焦る。教えられたように引き返し消防自動車が一台置いてあったところまで一旦戻り、回れ右をしてそのすぐ先にある道を右折、そのすぐ先に山道があったのでここを左折して進んでいく。
 右手に墓地がある。お二人がいわれていたとおりだ。そのすぐ先でY字路に道は分かれている。ここで迷ったがお二人が下っていくといわれていたことを思い出す。Y字路の右斜めは上っているが、左斜めは下っているので左斜めの道を進む。
 ここからしばらく杉林の中を歩く。これがかなり長い距離だった。というか焦っているので長く感じたのかもしれない。次第に本当にこの道でいいのか不安になってきたので、関さんからご紹介を頂いていた三戸町教育委員会の野田さんに電話をする。野田さんも私が歩く上で資料をお願いした方だ。ところがこの場所はまだ三戸町まできていないのでよくわからないということだったので、そのまま杉林の中を歩いていくと開けた場所にでた。
 右手に橋が見える。お二人が橋があるといわれていたので道が間違っていないことを確認できた。ここで十字路にでたが、さてどちらの方向に進んでいいのかがわからない。丁度車が通りかかったので手を上げて止まっていただき道を聞いた。
 私は道が分からなくなったときは、こうして走っている車でもお構いなしに手を上げて停まっていただいて道を聞くのだが、三好さんは歩いている人かせいぜい自転車に乗っている人にしか道を聞かなかったそうで、あたりかまわず車を停めて道を聞く私のやり方に驚かれていた。「まぁ、なんとかなるさ」は「なんとかするぞ!」につながるのだ。それにしても東北地方の方はどなたもとても親切で、皆さん車を停めて気持ちよく教えてくれた。

(**この場所は2010年11月7日に一戸町で行われた「土木遺産シンポジュームin奥州街道」に参加をした際、前日に「いわて街道交流会」の塩田さんと「よりゃんせ金田一」の久保田さんに本来の街道を案内をしていただいた。本来の道は姉滝から約100mほど上ってきて、道が左へカーブするところの右手にあった。入口に道案内の看板が立っているが、これは久保田さん達に立てて頂いたものだ。
姉滝
 ここから山道を上って行くと241号線に合流するので、これを左折して進むと、私達が道に迷って出てきたところに出る。ここから241号線から分岐し右折して進むのだが、ここにも右手少し先に看板が立っているので、それに従って進めば大丈夫です。私達が歩いた時は、この道は藪状態で歩くことが困難だったそうで、そのため私達は気づかずに通り過ぎてしまったということのようです。現在は久保田さん達の活動によって草が刈られており、歩きやすい、気持のいい道になっていました。**)

 ようやく道が分かったので進んで行き、「御膳水稲荷清水」の前を通る。ここは明治9年、14年と明治天皇が東北を巡幸された際、小笠原邸で御小休され、そのときにこの稲荷清水が召しだされ、以後この水を「御膳水」と呼ぶようになった。この地区には湧き水が多く、今でも生活用水や農業用水に利用されていると説明されていた。
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 ここからいよいよ蓑ケ坂を登って行く。明治天皇が東北巡幸の際、蓑ケ坂に差し掛かると天皇は馬車から下り、馬に乗り換え、大勢の村人が天皇が乗ってきた車を押し上げたと伝えられているそうだ。昔、蓑ケ坂を通ると風雨が起こり、そこにはうまい具合に蓑と傘が置かれていた。しかしこの蓑と傘は大ムカデが化けたもので、これを身に着けると沼に引き込まれてしまうと云われていたと説明されていた。
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 ここは最近まで通ることができなかったそうだが、地元の有志の方が道を整備して歩くことができるようになったそうだ。急坂を登っていくと落石があったのだろう、道に岩がかなりの数落ちていた。
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 この蓑ケ坂を登り切ったところが岩手県と青森県の境のようだったので、そこまで来ると「青森県に入ったぞう~」と叫ぶつもりにしていたのだが、時刻は16時半を過ぎており、周囲は刻々と夕暮れの様相を呈してきているので、そんなことを思い出す余裕もなく、ひたすら先を急いだ。
 登り切ったところに「明治天皇駐輦ノ地の碑」が立っており、駕籠立場跡があり、その横には吉田松陰の「東北遊日記」の一節を刻んだ石碑も立っていた。ここからの眺めは眼下に馬渕川が大きく屈曲して流れており、そのパノラマはなかなかのものだった。もっともここでも先を急ぐ気持ちは変わらず、日暮れ前までに三戸に着きたいと急ぎ足でここを後にする。
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 「駕籠立場の一里塚」がある。この街道は長年にわたり勾配を緩くするために削られており、両塚とも道路より6mほど高く位置している。
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 ここから下っていくとY字路が現れる。どちらに進んでいいかわからないので再び野田さんに電話をすると、本来の旧道は右へ下る道だと教えてくれた。「ただ藪になっているかもしれない、歩くことができるのかなぁ」と言われる。左へ行く道も4号線に出ることはできるそうだ。ちょっと迷ったが旧道を行く事にして進む。
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 道の右側でガサッと大きな音がした。何だろうと思って音のした方向を見ると動物がいる。一瞬犬かな?と思ったが違う。もっと大きいのだ。三好さんが「日本カモシカだ」といわれた。私は日本カモシカは見たことがないので分からなかったが、このときはかろうじて写真を撮ることができたので、一応写真を大きめにして貼り付けておきます。
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 やがて4号線に合流する。無事蓑ケ坂を越えることができたのだ。ここからの4号線は歩道がなくて歩きにくかったが、それでも 以前歩いた長崎街道の内野宿から山家宿の間の200号線に比べれば車の数がこちらのほうが少なかったのでまだましだと思った。
 今は営業をしていない三戸温泉の看板がかかっている家の前から4号線と別れて進む。
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 やがて三戸市街地に入る。掲示板に山屋さんからテンポというせんべいがおいしいということを書き込まれていたので、お店に行ってみたのだが、もう夕方で火を落としてしまったのでだめだといわれてしまった。そこで歩いていることなどを話していると代わりのゴマせんべいを頂いた。お金を払おうとすると「いらない」といわれてしまったのでありがたく頂いた。このご主人は私と同じ年齢だった。
 なんとか暗くなる前に今日の宿ビジネスホテル三戸に到着することができた。
 三戸宿も遺構が残っていないので、ホテルに入ったところでカウントする。
17時50分、三戸宿に着く。
金田一宿から3時間33分、18664歩、11.3km。

本日の歩行時間  10時間20分。
本日の歩数&距離 44654歩、31.4km。

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