奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月18日(金)

三戸~五戸

                                曇り時々雨 
 今日の予報は雨だったので一日休みを取る予定だった。ところがあまりひどい降りにはなりそうにないと予報が変わったので、急遽歩くことにし7時40分に出発する。
 熊原川に架かる黄金橋を渡って進む。この橋の欄干には「擬宝珠」がある。これは第12代南部政行公が京都在留中に、天皇から加茂川の橋を模したものを城下に架けることを許された。そのため政行公は擬宝珠で飾った都風の橋を架けたのが黄金橋の起源と説明されている。
 江戸時代初期に作られた擬宝珠は県指定重要文化財になっており、現在は三戸城温故館に納められているそうだ。
 それにしても加茂川の橋を模すことさえ許認可の対象になるとは、すごい時代だったのだと思う。
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 川守田にくると「唐馬の碑」がある。享保10年(1725)八代将軍徳川吉宗にオランダから献上されたペルシア(春砂)と名づけられた馬が、盛岡藩に下付された。藩ではこの馬を種馬として馬匹の改良を図ったが、9歳で死んでしまった。これを悼み、元野馬別当の石井玉葉が寛保3年(1743)にこの碑を建てて供養したと説明されている。
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 歩いていると前方からきた車が止まった。今日、これからお伺いする予定にしていた坂本さんのご主人だった。
 ご主人は用事で出かけられている途中ということだったが、歩いている我々をみて声をかけてくれたそうだ。
 お出かけの途中だったのでご挨拶だけして別れる。
 地獄澤土橋跡という木杭が立っている。ここは処刑場の跡ということだ。
 小向橋を渡ったところに奥州街道の碑が立っており、南部公霊屋まで700mの表示板が立っていた。
 南部公霊屋は街道から少し入ったところにあった。ここは南部利康公の霊屋である。利康公は南部氏27代利直公の四男として幼いころから政務を執っていたが、24歳の若さでこの世を去ってしまった。父、利直公がこれを悼み、三戸郷の一年分の収穫高に当たる費用を投じて桃山様式の豪華絢爛たる霊屋を完成させたと説明されている。
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 街道に戻って進むと坂本さんのお宅があった。ここは仙台でお会いした山屋さんのお母さんのご実家ということで、先ほどお会いしたご主人は山屋さんのいとこにあたる方だ。奥さんがおられ色々とよくしていただいた。
 こちらはりんご農家をされており、最近では南部町に神奈川や関西から中学生、高校生が毎年10校ほど修学旅行でやってきているそうだ。一軒の家に4~5人で分宿し、二泊してりんごの摘花や葉摘みの作業をするそうだ。
 我々のころの修学旅行は単なる観光旅行で、後になって思い出すのは、夜旅館で枕投げをしたことぐらいだったが、ここに来る生徒は二日間の間に土地の方々とすっかりなじんで、帰るときには泣き出す生徒もいるということだった。その後もそれぞれ交流が続いているようで、なかなかにいい試みの修学旅行だと思った。
 我々も坂本さんが作られたりんごジュースを頂いたがとてもおいしかった。
 坂本さん方を訪れるとほぼ同時に雨がすごい勢いで降りだし、これは困ったなと思っていたが、辞するときには小降りになっており、これから峠越えをする我々には非常に助かった。
 このお宅のすぐ横から高山峠への道を登って行く。
 いきなりY字路がでてきたが、丁度人がおられたので道を聞くと、左側の道を直進すればいいとのことだったので、その道を進んでいく。
 橋があり、これを渡って県道に合流し、左折して進む。
 門前水道組合の水道記念碑が左側に立っているので、そのまま進む。
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 Y字路の分岐点に字はかなり薄れているが、奥州街道とかかれた木杭が立っている。これを左方向に進む。
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高山峠はさほど高い峠ではなく、道もしっかりと整備されているので、歩く上で困難さはなかった。
 やがて「奥州街道 隧道」と書かれた標識が立っているところに来るので、標識に従って右に進む。
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 すぐ先に右へ進む道があるが、ここは直進すると「嶺の薬師入口」の木杭が立っている。
 一旦登りつめたところに「一里塚」がある。ここには両塚が残っている。
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 尾根の一本道を進むと「十和田山碑」が立っており、その上のほうに十和田山と刻まれた石が道とは反対側を向いて置かれている。昔の道はこの石の向こう側を通っていたのだろうか?
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 尾根伝いに歩いていくが周囲は深い霧に包まれており、時々うぐいすの鳴き声が聞こえてくる。
 そのとき突然、道のすぐ横で大きな羽音がして茶色のかなり大きな鳥が飛び立っていった。驚いたが、それにしてものどかなものだ。自然を満喫する。
 高山峠にくる。「明治天皇駐輦所碑」が立っており、その横に展望台なのだろうか、木造の塔が立っている。なんとなく邪馬台国を想像させるような造りだが、なにか意味があるのだろうか?2008041809 
 今日はあいにくの雨で視界が全く開けないが、晴れていればきれいな眺望が広がっているのだろう。この場所は藩政時代、藩主がお休みされた駕籠立場でもあり、明治天皇の東北巡幸に同行していた、新聞記者岸田吟香がこの地の景色の良さを讃えた文章が記載された表示板が立っていた。
 ここから下ったすぐのところに再びY字路があり、これも左へ進む。
 水無坂の木杭が立っており、すぐ横に「安達ケ原の鬼ババ伝説の地」と書かれた、いかにも鬼ババを連想させるような表示板が立っていた。
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 水梨清水がある。水無坂と呼称は一緒だが字が違う。何か由来があるのだろうか?このあたりは空気が冷たい。気温がかなり下がってきているようだ。鬼ババの妖気が漂っているのだろうか?とにかく寒い!
 左手に道路があり北向方面へ行く道のようだ。左方向へは行かず直進して山道を下っていくとようやく民家のあることろに出てきた。
 ここでも道はY字路に分かれており、左側に進むと表示板があり、五戸まで6.5kmと表示されている。
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 下る道は車道に出て右折し、しばらく進むと右手に浅田支所がある。
 少し進んだところで左に分岐する道がある。ここにも奥州街道の表示がなされている。青森県に入って奥州街道を表す表示物が多い。これは歩く上で非常に助かる。ありがたいことだ。
 庚申塔、廿三夜塔が左手にある。
 南小学校を右手に見ながら進むとY字路があり、これを左方向に進むと、ここから下り坂だ。
 鳥内清水の表示板が立っている。山深いところなのできれいな清水が色々なところから湧いているのだろう。
 及び道は2方向に分かれており、ここは右側の坂を上っていく。ダラダラとした上り坂がしばらく続く。島内坂と表示されている。上りつめたところに一里塚がある。
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 「明治天皇御小休所碑」が立っている。横に説明書があるが、これを読むと、岩倉具視、大久保利通、大隈重信、木戸孝允などそうそうたる顔ぶれが随行しており、総勢213人、馬61頭であったと書かれている。その当時これだけの人数が一度に移動するということは、動く側も、受け入れる側も大変だっただろうと思う。「夜明け前」に書かれていたことを思い出す。それにしてもこれほどのメンバーが東京を留守にして、政治は大丈夫だったのだろうかと思う。優秀な人材が数多くいたのだろう。
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 五戸の市街を歩き、新丁までくる。街道から少し離れたところに今日の宿旅館さくら屋があった。
 15時に到着する。
 この宿はきれいで風呂も大きく、中々にいい宿だった。三好さんは「奥州街道の帝国ホテルだ!」といわれていた。
 明日も雨の予報だし、気持ちのいい宿なので、ここで休養を兼ねてもう一泊することにした。

 本日の歩行時間  7時間20分。
 本日の歩数&距離 32103歩、21km。

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