奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月22日(火)

野辺地~馬門~小湊~浅虫~JR青森

                                    晴れ 
 7時22分に昨日歩いた柴崎の少し手前にある馬門番所跡へタクシーで行く。ここは昨日探したがわからなくて、宮沢氏との会話の中でわかった場所だ。
2008042201 
 この碑のところにオバサンが二人おられて、「おはようございます」といいながら私の名前を呼ぶ。「エッ!」と驚いたが、昨日の新聞を読んだとのこと。二紙ともに写真入りでかなり大きく書かれていたので、ご覧になった方が多かったようだ。このお二人から「これから先も時々状況を新聞に載せてね」といわれたが、さすがにそれは無理ですと言っておいた。
 右手に陸奥湾を見ながら4号線を進む。左側は林で鶯が鳴いている。鶯の北限はどこなのだろう?と思ったので後で調べてみると、日本では全国に分布しており、寒冷地では冬季は暖地へ移動するらしく、環境適応能力は広いとなっていた。
 風が強く、冷たい。温度表示は10℃だがもっと寒く感じる。これから先も風が強い日が多かった。
 「藩境塚」が海沿いにある。これは「四ツ森」とも「四ツ塚」ともいわれる津軽南部藩境塚で、藩境だった二本又川をはさんで二基ずつの土盛が残っている。きれいに整備されており「従是東南盛岡領」「従是西北津軽本次郎領分」と記された碑が立っている。
2008042202 
 道沿いにホタテの直売所が並んでいる。このあたりはホタテの産地だ。潮の香が漂ってくる。
 堤ケ沢のところで4号線からはずれて旧道を歩くはずなのだが、入り口がわからずそのまま進んでいると、二人の男性から「歩いているの。新聞見たよ」と声をかけられた。しばらく歩いてどうもおかしいということになり、横にあったホタテの直売所に入って道を尋ねると、ご夫婦で親切に教えていただいた。このお二人も新聞を見たといわれていた。新聞の影響力の大きさに驚く。
 結局、藩境塚から最初に左折する道が旧道だった。
 しばらく旧道を歩き、狩場沢小学校のところから4号線に合流する。JR狩場沢駅を左手に見て進むが、ここから歩道がなくなる。車の通行量はかなり多く、しかもトラックが多いのでちょっと怖い。
 堀差川を過ぎた少し先、左側に「明治天皇御休跡碑」が立っていた。
2008042203 
 左ェ門次郎のところで再び旧道に入る。入り口にお地蔵様が並んで立っていた。
2008042204 
 口広に来ると「明治天皇御野立所御跡碑」が立っている。
2008042205 
 口広分団機械器具置場の看板がかかっている建物から右折して旧道に入る。このあたりは短い距離で旧道と4号線を出入りする。旧道が4号線や線路で分断されているということなのだろう。海岸近くの平坦な道を淡々と歩いていく。
 沼舘尻から資料によると旧道に入るようになっている。ここは跨線橋が架かっており、その横に旧道らしき道がついている。どちらを歩くか迷ったが、跨線橋を渡ることにする。渡りながら下を見ていると、旧道らしき道は線路で遮断されていた。先を見ると線路の向こう側にも道らしきものが見える。跨線橋を下ったところにおられた人に聞いてみると、跨線橋が最近できたのでそちらを通るようになったが、それまでは線路に踏切があり、そちらの道を通っていたということだった。
 平内町に入る。ここに小湊の歴史民族資料館があり、そこに「平内代官所跡碑」があった。ここは安永4年(1775)黒石藩の代官所として建てられたものだ。
 平内郷はかっては南部領だったが、天正15年(1587)津軽領となり、明歴2年(1656)に津軽信英が平内郷を賜り、黒石領となったと説明されている。
2008042207 
 ここでカウントする。
 11時51分、小湊宿を通る。
 馬門から4時間22分、22308歩、14.9km。

 このあたりは古墳時代は蝦夷の砦「チャシ」で、藩政時代には代官所や武家屋敷があり、御家中と呼ばれていたそうだ。樹齢500年といわれる欅と、同じく樹齢400年といわれる黒松が並んで立っていた。
2008042208 
 平内町役場には「明治天皇行在所跡碑」が立っていた。
2008042209 
 ここで昼食にしようということになる。折角ホタテの産地に来たので、ホタテが食べたいと思ったが適当な店が見当たらない。丁度女性の二人連れがおられたので、お聞きすると4号線まで出なければ店はないが、自分達も同じ方向へ行くので案内しましょうと言ってタクシーに同乗させていただいた。親切にしていただきありがたいことだ。
 店ではホタテづくし定食というメニューがあったのでこれを食べる。おいしかった!満足!
 食事を終わり、タクシーで再び役場のところまで戻って歩き始める。 4号線を横断して最初の角を右折して進むと「天明飢饉供養塔」がある。
 天明の飢饉は天明2年~5年(1782~1785)に起き、歴史に残る4大飢饉(元禄、宝暦、天明、天保)の一つといわれている。平内でも沢山の人が餓死し、357戸あった家の半数が空き家になった。この飢饉で亡くなった人々を供養するため天明7年(1787)東福寺11代住職がこの供養塔を建立したと説明されている。
2008042210 
 ここから先も何度も4号線と旧道を出入りしたが、「青森県歴史の道整備促進協議会」の資料は写真つきで非常に参考になったことを付記しておきます。
 陸奥湾が見えるところまで出て来て、右手に土屋小学校があるところで4号線の右側にある旧道を進む。ここも旧道の距離は短くすぐに4号線に合流する。
 ここから少し行ったところを歩いていると、車から女性が降りてきて「これに載っている方ですか」と新聞をコピーした紙を持って話しかけてきた。見ると我々のことが掲載されている新聞だった。「そうです」というと、「今日あたり、この近くを歩くのではないか、ひょっとすると会えるのではないかと思っていました」と言われる。
 この方は青南観光バスのバスガイドをされておられる下田さんだった。わざわざコピーまでして持っておられるのをみて、なんだかうれしくなってしまい、記念に写真を撮らせてもらった。すっかり有名人になってしまった感じだ。
2008042211 
 この方は25日に竜飛岬に観光客を案内していかれる予定があるということだったが、我々は26日に到着予定だ。もう会えないと思っていたのだが、思いがけず、全く偶然に再会(?)することになるのである。
 ほたて大橋を渡る。左手に旧道らしき道が見えたがそのまま橋を渡った。渡りながら左手を見ていると、土屋番所跡とおぼしきものが見えたが、そのまま大橋を渡って進む。渡り終えた後で旧道を合流していたので、左側の道が旧道だったのは間違いないと思った。
 ここから浅虫の温泉街に入っていくと線路を越えた向こう側、奥まったところに浅虫本陣跡といわれる旅館「柳の湯」があった。
2008042212 
 ここでカウントする。
 16時36分、浅虫宿本陣跡を通る。
 小湊宿から4時間45分、19442歩、12.3km。

 浅虫温泉駅からJRに乗り青森まででて、駅の近くのルートインに宿泊する。こうすれば明日は一日荷物を持たずに歩くことができて楽なのだ。温泉でゆっくりするよりも現実的な選択をする。
 ホテルに入って足の裏をみると、マメがかなり大きくなっている。歩くたびに足の裏がズキンズキンと痛むが、もうここまでくれば残すところ僅かだ。もう一息頑張ろう!
2008042213
 

 本日の歩行時間   9時間14分
 本日の歩数&距離  44203歩、28.2km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん