奥州街道(奥道中)を歩く(仙台~青森)

2008年04月07日(月) ~2008年04月27日(日)
総歩数:788463歩 総距離:537km

2008年04月25日(金)

平館~今別~三厩

                                   晴れ  
 朝食を食べていると女将さんがやってきて、昼食のおにぎりを持っていかないかという。途中食べ物を売っているところがないということだったのでお願いすると、大きなおにぎりを二つ包んでくれた。たしかに食事をするところは高野崎に一軒あったのみで他にはなかった。
 7時15分に出発する。 今日は天気が回復するという予報だったが、朝は曇っており肌寒い。
昨日宿へ行くために曲がったところまで戻ってみると、そのすぐ横が平館湊番所跡だった。遺構は何も残ってなくて野原になっていた。
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 津軽国定公園入り口の表示板が立っており、そこから平館の松並木が続いている。中々に立派な松並木だ。
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 松並木の中を進んでいくと、左手少し入ったところに「長寿の松」「夫婦松」といわれる立派な松が立っている。
 長寿の松は平館松前街道の中で最も古い松で、樹齢600年、樹高18m、幹回り7mある。その向こう側にある夫婦松はクロマツとアカマツがまるで円満な夫婦のように寄り添っているようにみえるもので、クロマツは樹齢400年、樹高20m、幹回り5m、アカマツは樹齢300年、樹高19m、幹回り3mと説明されている。
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 その先にはおだいばオートビレッジがあり、コテージキャンプサイトになっていた。
 「平館台場跡」がある。
 ここは寛政文化のころ、近海に異国船が出没するようになったところから、幕命によって津軽藩が外ケ浜海防施策として嘉永元年に築いた西洋式砲台場跡である。
 二ヶ所に入り口があり、台上一帯に土塁を築き、その上に松を植えて海上から見透かされぬ用意がなされている。
 原型のまま保存されているのは全国的にもまれと説明されている。
 吉田松陰が嘉永5年(1852)3月北風吹く雪解けのころ、歩くのに難渋しながらこの台場と付近の情景を「東北遊日記」に書いていると説明されていた。旧暦3月といえば今の時期とあまり変わらない。その当時はこの時期、歩くのに難渋するほどの雪がまだ残っていたのだろう。
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 松並木を抜けたところ、左手に春日神社が見えるところで280号線に合流する。
 石崎沢には発掘調査は実施されていないが、縄文時代の土器片が見つかっているという看板が立っていた。
 このあたりになると日が差してきて海がきれいだ。曇っている時とこんなにも一気に海の色が変わるのかと改めて思う。ザブン、ザブンと打ち寄せる波の音が一定のリズムを刻んでいて耳に心地いい。
 このあたりの海岸線は家が道路に面して一列に並んでおり、そのすぐ後ろは山だ。右手はすぐに海、車の通行量は少ない。更に進むと人家はなくなり、海岸線も砂浜がなくなり岸壁や磯になる。昔は相当の難所だったのだろう。
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 右手岩場の突端の窪みに「岩屋観音」がある。
 ここは草創は定かではないが、貞享3年(1689)「外ケ浜代官所・・・書上帳」によると、この天然の岩窟に小さな祠が建てられ、観世音菩薩が安置されているとある。又、天明6年(1786)ころの凶作が続いた大飢饉のころ、この観音堂は津軽霊場三十三観音の二十一番札掛所として広く知られていたと説明されている。
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 トンネルを抜けて間もなく、左手に「だるま滝」がある。大きな岩一杯に水が広がって落ちている。段差のせいで見る角度によってだるまさんにみえるからこの名前がついたということだ。
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 今日も風が強く真正面からの向かい風だ。風があると体感温度はかなり低く感じるようになる。まだ春浅き地という感じだ。
 奥平部で道は分岐し、左手の坂道を上っていくと今別町立開智小学校校舎跡地の碑が立っている。碑には「我らの学舎碑に変われども、開智の心永遠に育まん」と刻まれている。明治9年5月10日に開校し、平成12年3月31日閉校と書かれている。古びた校舎にかかっている時計は5時50分で止まっていた。最後の日、この時刻に全ての行事が終わり、電源を切ったのだろうか。
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 赤い大きな岩が一つあり、赤根沢の赤石の看板が立っている。このあたりの赤い岩や土のことを赤岩と呼ぶそうで、古来建造物の朱塗りなどに用いられたベンガラ(酸化第二鉄)の原料になった。赤根沢のように質量共に優れたベンガラは少なく、津軽領内の岩木山神社や日光東照宮、江戸城などにも使われたと資料に書かれている。
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 崖の上から高野崎を望む。中々の景色だ。ここには文化5年(1808)に台場が築かれた。
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 袰月の集落に「史跡伊能忠敬止宿」の木杭が立っている。ここは以前一本木村役場の跡だったという。このあたりに昔は湊番所や御陣屋があったという。 
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 津軽三十三観音霊場第二十一番札所である「ほろつき海雲洞」が左手少し上ったところにある。すぐ横に小さな滝が落ちていた。
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 大泊集落のところで道はY字路になっており、これを右斜めに進むと「旧松前街道大泊いんくぐり岩」と書かれた木杭が立っている。右下の海岸をのぞくと浸食されて中央に穴が開いている岩が見える。これは別名「松蔭くぐり岩」ともいわれ、吉田松陰がここを通ったことから名づけられているそうだ。松蔭に限らず、昔はこの岩のあたりを通っていたのだろうが、波の高い日などまさに命がけで渡ったのだろう。昔の旅の厳しさを感じさせる場所だ。
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 与茂内の海岸線は車も少なく、人家もない。当然人通りも全くない。以前歩いた北海道北部の道の風景に良く似た雰囲気だ。
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 村元で左へ分岐するとすぐ右手に稲荷神社があった。神社の横を右に曲がって進んだが、行き止まりになっており、引き返して次ぎの角から右折し、あすなろ橋を渡る。ここから再び右折して以前の道に合流する。
 今別は宿場だが遺構はなにも残っていない。お年寄りがおられたので松前藩がこの地を通るときはどうしていたのか聞いてみると、お寺に泊まっていたようだと教えてくれた。
 今別役場があったので、ここでカウントする。
 14時17分、今別宿を通る。
 平館宿から7時間2分、37161歩、22.9km。

 今別を過ぎると特に何の遺構もなく淡々と歩く。後ろを振り返ってみるとはるかかなたに高野崎の灯台が見える。あそこから歩いてきたのかと改めて思う。
 やがて三厩に入る。280号線バイパスと合流するところに風力発電の翼で作った塔が立っている。
 「竜飛岬 風の岬へようこそ」、「三厩駅 津軽国定公園竜飛」と大きく書かれている。このあたりは歩いていても風が強いことがよく分かる。
 しかしこうしてみると風力発電の翼は大きいものだ。ここからあすなろ大橋を渡って進む。
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 この道は最近できた道のようで左手に見える道が旧道のようだなと思いながら進む。
 歩いていると後ろからきたバスがクラクションを鳴らすので振り返ると、青南観光バスで先日会った下田さんが手を振っている姿が見えた。そういえば今日、竜飛岬に行くといわれていたが、それにしても偶然とはすごいものだと思う。お互い、この場所を通る時間がほんの10分でもずれていれば、あるいは我々が旧道を歩いていれば、こうして会うことはなかったのだ。
 今回の旅を象徴するような瞬間だった。今回は数多くの方と知り合うことができて本当によかったと思う。
 今日の宿、民宿伊藤に荷物を置き、本陣跡である山田商店へ行く。外ケ浜三厩支所のすぐ前に山田商店はあった。
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 15時52分、三厩宿本陣跡に着く。
 今別宿から1時間35分、8700歩、5.1km。

 これで奥州街道は踏破したのだが、明日は竜飛岬が控えているし、街道終点のモニュメントもなにもないので、なんとなく「終わった!」という気持ちになれなかった。明日の竜飛岬ではどのような気持ちになるのだろうとこの日の日記に書いている。ところが翌日少し先で松前街道終点の碑を見つけることになる。
 国道280号線がここまでで終わり、この地から339号線がスタートしている。それを表す碑があったが、ガードレールの下に隠れている小さいものだった。
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 宿に帰り、着ているもの全てを洗濯する。身も心もすっきりとして最終日を迎えたいのだ。

 本日の歩行時間   8時間55分。
 本日の歩数&距離 46864歩、29.2km.

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