二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2013年11月20日(水)

民宿寿食堂~6番安楽寺~7番十楽寺~8番熊谷寺~9番法輪寺~10番切幡寺~11番藤井寺~さくら旅館

                                    曇り時々小雨

 7時12分に出発する。今日も風が強く、外気が冷たい。歩いていると一人ずつ、二人の方とすれ違う。逆方向に歩かれているということは八十八番まで打ち終わって、お礼参りに一番へ向かわれているのだろう。同好の士としてお互いに笑顔で挨拶を交わしあう。今日も道標にしたがって進んでいく。今日は一日中曇り空で時々小雨がぱらついた。

 「六番札所安楽寺」は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山とされ、現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。ここの入り口には「商用、HPへの掲載を目的とした境内の撮影はご遠慮願います」と書かれた看板が立っているので写真は撮らなかった。
7時46分に出発する。
 その先右手に熊野神社があり、文政6年(1823)の鳥居が立っており、更にその先右手に嘉永7年(1854)の百万遍供養塔が立っている。
百万遍供養塔
 「七番札所十楽寺」は大同年間に弘法大師がこの地を巡教して逗留されたときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んだのが本尊として祀られたと伝えられている。その際に、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に、10の光明と、輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けたといわれている。境内にはスズメバチが巣を作っていて、その場所は縄が張られていて立ち入り禁止になっていた。今年はスズメバチが多いと聞いていたが、ここもその一例なのだろう。
 ここを出発したのだが、うっかりしていて肝心の掛け軸に納経をいただくことを忘れていた。少し進んだところでハッと気がついて引き返したので事なきを得たが、そのまま気づかずに先へ進んでいたら大変だった。
8時30分に改めて出発をする。
 右手に御所小学校があり、そのすぐ先に建設省(現国交省)の道標が立っているが、矢印が逆の方向を指していた。幸い別の道案内のシールが本来の方向へ向けて貼ってあったのでよかったが、このシールがなければ間違う人が出てくるかもしれない。
建設省1建設省2

 右手に天保3年(1832)の地蔵尊がある。その前に板野十六地蔵の四番札所と書かれた標柱が立っている。
板野十六地蔵
その先右手、旭北集会所の横に文化13年(1816)の石灯籠、文化10年(1813)の石碑、道路を挟んだ左手に慶応3年(1867)の法華経一字一石塔をはじめとした六基の石碑が立っている。
旭北集会所1旭北集会所2

 右手、御所神社の鳥居の横に文化12年(1815)の石灯籠と年不詳ながら古い宝篋印塔が立っている。
御所神社
 その先に文化9年(1812)の道標がたっており、指で進む方向を示している。このあたり文化年間のものが多い。
文化9年道標
 「八番札所熊谷寺」の仁王門は四国霊場の中で最大のもので、貞享4年(1687)に建立され、徳島県の指定文化財になっている。和様と唐様の折衷様式で、間口は9メートル、高さは12.3メートル。2層目の天井や柱には極彩色の天女の姿などが描かれている。
熊谷寺の仁王門
 境内にはスピーカーでお経が流れていたが、これは他のお寺ではなかったことだ。 
9時56分に出発する。

 「九番札所法輪寺」へ向かう道は田んぼの中の道で、20年前に撮った写真とあまり変化がない。歩きながらあの当時もこんな風景だったななどと思いながら歩いて行ったが、何故か現在の風景の写真を撮っていない。お寺の前にあったお店は今はやってなくて廃屋のようになっていた。ここだけは時の流れを感じた。
 弘法大師がこの地方で巡教されていたときの弘仁6年(815)、白蛇を見つけた。白蛇は仏の使いであるといわれていることから、大師は釈迦の涅槃像を彫造し、本尊として寺を開基したとされている。涅槃釈迦如来像は、北枕でお顔を西向きに、右脇を下に寝ている涅槃の姿を表しているが、そばの沙羅双樹は白く枯れ、釈迦を慕い嘆き悲しむ羅漢や動物たちの像も安置されているといい、開帳は5年に1度という。
10時35分に出発する。
 歩いていくと突当り左手に慶応4年(1868)の地蔵尊と文政3年(1820)の不動明王が並んで立っており、その前に年不詳ながら古い道標が立っている。
慶応4年の地蔵尊
 その先左手に「小豆洗大師」がある。弘法大師が、法輪寺建立後11月24日大雪の中、切幡寺へ行く途中、日没になったので楠の森で一夜を明かした。極寒に耐えかね、小豆粥を炊いて食べようとしたが、付近に水がないので杖で楠の根を掘ったところ清水が湧いてきたという。この水で粥を炊いて体を温め翌朝から切幡寺の建立に取りかかり、一夜のうちに本堂を建てたという。
小豆洗大師
 称念寺というお寺があり、その先から遍路道へ入っていくが、入口に「まむしに注意」という看板が立っており、その先にも頻繁に同様の標識があった。マムシの巣があるのだろう。マムシは大嫌いで何度出会っても怖い!かって11月の終わりに鹿児島を歩いた際に出会ったことがあるので、この時期ではあるが、一応注意をして進む。
 切幡寺へ向かっていると、手前のお店の方が荷物を預かりますと言っていただいたので、遠慮なくお願いをして、身軽になって進む。切幡寺へは階段が333段あって、登るのに荷物がないと随分楽だ。階段の入り口に「是より三三三段」という石碑があり、その先に「是より二三四段」、更にその先に「女やくよけ坂」という石碑が立っている。
是より三三三段
 「十番札所切幡寺」に着く。この寺の由来は、昔、この山麓に機を織る乙女がいた。ここで修法していた弘法大師は、結願の7日目、綻びた僧衣を繕うために布切れを所望されたところ、乙女は、織りかけていた布を惜しげもなく切って差し出した。大師は、この厚意にたいへん感動し、「何か望みはないか」と尋ねると、乙女は、「父は都で薬子の変に関係して島流しとなり、母は身ごもっていたが、男の子が産まれればその子も咎を受ける。どうか女の子が産まれるようにと、清水の観音様に祈願し、やがてこの地に来て産まれたのが私です」といい、「亡き父母に代わり、観音様をつくってお祀りし、わたしも仏門に入って精進したい」と願いを告白した。大師は強く心を打たれ、さっそく千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けた。乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体から七色の光を放ち千手観音菩薩に変身した。大師は、このことを時の嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立して自ら彫った千手観音像を南向きに、また即身成仏した千手観音像を北向きに安置して本尊にしたと伝えられる。得度山、灌頂院、切幡寺それぞれの名称もこうした由縁によるという。
 11時55分に切幡寺を出発し、先ほど荷物を預かっていただいていたお店に立ち寄る。このお店は掛け軸の表装を行っているそうで、パンフレット等一式をいただき、お茶とアメ玉のお接待を受けた。今回の旅で掛け軸を完成させ、帰って表装をしようと思っているので、資料を参考にさせていただくことにする。
 その先の四国変電所があるところの右手にうどん屋があったが、ここから遍路道を外れて左折して少し行くと、「やまじゅう」という店があり、ここで昼食にする。先ほどのお店で推奨していただいた食堂だ。日替わり定食は680円と安く、おいしくて、ボリュウムがあった(これが一番!)。四国は遍路道の沿道に店が少ないので、飢餓状態に弱い私にとっては昼食をどうするのかは重要なポイントなのだ。
 食事を済ませ、遍路道に戻って進むと左手に粟島神社があり、文久元年(1861)の鳥居が立っている。
吉野川の堤防に突当り、最初は堤防に沿って右折して進んだが、どうもおかしいので、元に戻って堤防を上ってみると、前方に潜水橋が見えた。
潜水橋1
 ここにも標識が立っていたのだが、堤防を上ったところにあったので、当初気が付かなかったのだ。ここから日本で一番大きい中州、善入寺島へ入る。ここは吉野川河口から約30kmの地点に位置し、広さは約500haあるという広大な中州だ。昔は3000人もの人が住んでいたそうだが、吉野川が度々氾濫するので、大正時代に立ち退き命令が出て、現在では畑が広がっているだけで無人島になっているそうだ。たまに農作業をしている人を見かける程度でほとんど人影もない広大な畑地を進んでいくと、再び潜水橋がある。
潜水橋2
 これを渡ると吉野川市に入る。この道は手持ちの地図に記載がないため、自分が地図のどのあたりを歩いているのか、さっぱりわからなかったが、随所に標識があるので、それに従って進んでいくと、JRの神谷踏切に出た。これでようやく自分のいる位置が地図上でもわかった。
これから先も標識に従って進んでいき、15時7分に「十一番札所藤井寺」に到着する。
ここは三方を山に囲まれ、渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、薬師如来像を彫造して、堂宇を建立した。その地からおよそ200メートル上の8畳岩に、金剛不壊といわれる堅固な護摩壇を築いて、17日間の修法をされた。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称されるようになったという。
 納経を済ませて明日登る焼山寺への入り口を確認すると、入口は本堂の横にあり、すぐわかった。20年前にはここに「強脚 5時間、平均 6時間、弱足 8時間」と記された案内板があったが、現在はなくなっていた。そのかわり「最後まで残った空海の道ウォーク」「トイレは済ませましたか 途中にトイレはありません」と書かれた看板が立っていた。いよいよ遍路ころがしといわれる難所、そして掛け軸の最後の空白を埋めるお寺まできたという気持ちが高ぶってくる。足よ、何とか持ちこたえてくれと祈る気持ちだ。
焼山寺への入り口
 本堂で般若心経を唱え、次に大師堂で唱えていると、横で遍路衣装に身を固め、朗々とお経を唱える二人連れの女性がおられた。帰り際にこのお二人とお話をすることができたが、お二人は姉妹でお姉さんは鳥取から、妹さんは大坂から来られて、車で回っているということだった。4月に1泊2日、6月に4泊5日、11月に5泊6日で88番大窪寺まで回られ、最初は納経書を持っていなかったため、もう一度1番から17番井戸寺まで回られて、結願されたという。次は西国観音霊場を回られる予定だそうで、やる気満々です!といわれていた。これからもがんばって下さい。

 今夜の宿は駅の近くのさくら旅館。藤井寺の近くに旅館吉野という宿があって、ここがいいと思っていたのだが、今日は満室ということでことわられたのだ。納経所で距離を聞くと4㎞ぐらいはあるといわれたので、明日のことを考えてタクシーで移動した。宿は鴨島駅の近くにあった。宿泊客は4人で、一人の方は今回が4回目で、明日は朝4時には出発をされるということだった。暗い中、山を登るのは怖くないのだろうか。もう一人の方は大坂から来られた方で今回が2回目といわれていた。この方とはその後一緒に歩くことになる。もう二人の方はあまり話をしなかったが、車で回られているようだった。

 本日の歩行時間  7時間55分。
 本日の歩数&距離 37717歩、 26.4km。

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