二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2015年01月25日(日)

道後温泉~52番太山寺~53番円明寺~太田屋ビジネス旅館~菊間駅

                                          晴れ

 7時8分に出発するが、いきなり道を間違ってしまって、ウロウロしてしまった。
 幸い遍路道をご存知の方がおられて、事なきを得る。遍路道に合流して、マークを見つけるとホッとする。
 187号線を進んでいると、右手に文化13年(1816)の道標が立っており、その横に半ば埋もれた道標がある。
文化13年
 左手に松山大学のグラウンドを見ながら進むが、この辺りには大きな寺院が多い。
 196号線に合流して進むと、左手に遍路道を示す矢印があったので、あまり深く考えずに左折してしまった。太山寺へ行く道は地図を見ると、甲、乙、丙と三本のコースがあって、当初は一番短い乙コースを歩こうと思っていたのだが、この道は一番長い丙コースということにその先で気が付いたが、もう少し歩いてきているし、乙コースよりも長いといってもわずかしか変わらないので、そのまま先へ進む。どうも注意が散漫だ。
 この道もきちんと矢印が付いているので、それに従って進み、一ノ門から左折して進むと、二王門がある。これは文明17年(1485)に大修理が行われたとき、当初は楼門(重層)だったものを現在の単層に改めたものと考えられているが、鎌倉期の特徴をよく残していると説明されており、重要文化財に指定されている。
二王門
「52番札所太山寺」に9時42分に着く。
 ここには開基したとされる真野長者、その長者が一夜にして御堂を建てたという縁起がある。長者は豊後(大分)でふいごの炭焼きをしていたが、神のお告げで久我大臣の娘・王津姫と結婚、それ以後運が開けて大富豪となった。用明2年(587)、商いのため船で大阪に向かうとき大暴風雨に遭い、観音さまに無事を祈願したところ、高浜の岸で救われた。この報恩にと一宇の建立を大願し、豊後の工匠を集めて間口66尺、奥行き81尺の本堂を建てる木組みを整えて船積みした。順風をうけて高浜に到着、夜を徹して組み上げ、燦然と朝日が輝くころに本堂は建ち上がった。以来「一夜建立の御堂」と伝えられている。
 その後、天平11年(739)に聖武天皇(在位724~49)の勅願をうけて、行基菩薩が十一面観音像を彫造し、その胎内に真野長者が瀧雲山で見つけた小さな観音像を納めて本尊にしたという。弘法大師は晩年の天長年間(824~34)に訪れ、護摩供の修法をされて、それまでの法相宗から真言宗に改宗している。なお現本堂は長者の建立から3度目だが、嘉元3年(1305)に建立されており、真言密教では最大規模を誇り国宝に指定されている。
太山寺
 また梵鐘は永徳3年(1383)に鋳造されたもので、愛媛県指定有形文化財になっている。
梵鐘
 参拝を終えて坂を下っていくと、一人の歩き遍路の方とすれ違った。この方とは今夜の宿が一緒だった。この時期、さすがに歩き遍路の方は少なくて、数人姿を見かけただけだった。ただ団体の方はそれなりにいて、特に昨日、今日と土曜、日曜だった関係からか、かなりの方を見かけた。
 円明寺の八脚門は室町時代の様式を残しており、愛媛県指定有形文化財になっている。
八脚門
 「53番札所円明寺」には10時37分に到着する。
円明寺
 ここは天平勝宝元年、聖武天皇(在位724~49)の勅願により、行基菩薩が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造して安置し、七堂伽藍を備えた大寺として建立したのが創建とされている。当時は、和気浜の西山という海岸にあり「海岸山・圓明密寺」と称したという。
 のち、弘法大師が荒廃した諸堂を整備し、霊場の札所として再興したが、鎌倉時代に度重なる兵火で衰微、元和年間(1615~24)に土地の豪族・須賀重久によって現在地に移された。さらに、寛永13年(1636)京都・御室の覚深法親王からの令旨により仁和寺の直末として再建され、寺号もそのとき現在のように改められている。 円明寺はまた、聖母マリア像を浮き彫りにしたキリシタン灯籠があることでも知られる。また大正13年にアメリカ人巡礼者が発見した慶安3年(1650)の銘がある四国霊場最古の銅板納札が保存されているという。 この納札でとくに注目されるのは、初めて「遍路」の文字が記されていると説明されている。

 円明寺から遍路道は二本に分かれているが、どちらをとってもその先で合流している。私は183号線を進まずに、お寺の左手の道を進む。
 二本の遍路道が合流した先で、左手に海が広がってくる。潮の香がする。右手に「五右衛門堂」がある。寛永7年(1630)この地方では作物が取れず、農民は苦しんでいたため、西山五右衛門は農民に代わって年貢米の免除を直訴したが、許されず、処刑されてしまった。そのため村人はお堂を建てて五右衛門を弔ったという。11時27分にここを通る。
五右衛門堂
 右手に「木造地蔵菩薩坐像」を安置する地蔵堂がある。この地蔵菩薩は応永2年(1395)に造られ、寛文9年(1669)に修復されたということが像の体内に明記されており、松山市指定有形文化財にになっている。
木造地蔵菩薩坐像
 また道を挟んだ左手には「粟乃井」と呼ばれる井戸がある。これは古来粟粒のような水がぶつぶつと湧くことからこの名前が付けられたそうで、地名の起こりにもなっている。難所だった粟井坂を越える人々の喉を潤したという。11時49分にここを通る。
粟乃井
 レストランがあったので、ここで昼食にする。
 この先も196号線を通ったが、沿道には食事をする店がかなりある。特にお好み焼きの店が多いように感じた。
 左手に「西ノ下大師堂」がある。13時17分にここを通る。
西ノ下大師堂
 このあたり、車の通行量は多く、しかも歩道がない所が多く、またあっても狭いところが多いので歩きづらい。
 13時49分に今日の宿である、「太田屋ビジネス旅館」に到着する。
 ただまだ早すぎるので、一休みして後、荷物を置いて先へ進む事にする。
 179号線から左へ入ったところに「養護院」がある。ここは永禄年間(1558~1570)に廻玄法印によって市内中西外に修験道場として開かれたと伝えられており、大正9年に現在地に移転したという。伝承では、文政8年(1825)、風早郡北条に住む亀次郎宅に修行僧が托鉢を請うた。妻が寸志を渡すと僧は大変喜んだ。その後も立ち寄り宿泊すること7度に及んだ。文政9年(1826)、亀次郎の夢枕に修行僧が立って仏教の教えを説き、杖・念珠・草履など5品を置いて行ったと言われる。京都智積院の明星法印はこの話を聞き、四国巡錫の際に亀次郎宅を訪ね詳しく話を聞き、法印は立ち寄った修行僧こそ弘法大師であると確信し、「仏の慈愛の杖」として紺地金襴の袋に収めて杖を当寺に奉納した。以来、「杖大師」と呼ばれるようになったという。14時16分にここを通る。
養護院
 更にその先に「鎌大師」がある。弘法大師が行脚の途次、この地に悪疫が流行していることを憐れんで、村人に鎌で刻んだ大師像を与えたところ、無事平癒したので、その大師像を本尊として、この地に堂を建て、「鎌大師」と呼んで深く信仰されてきたという。14時38分にここを通る。
鎌大師
 味栗集会所の前に「松山札辻より五里」というまだ新しい石碑が立っている。15時1分にここを通る。
松山札辻より五里
 味栗踏切でJRの線路を横断した先、右手に「原地蔵堂」がある。15時12分にここを通る。
原地蔵堂
 ここから海沿いの道を歩く。海の水がきれいだ。その先に瓦製造メーカーが並んでいる。この辺りは瓦の産地のようだ。
「遍照院」がある。弘仁6年(815)弘法大師が42歳の時に四国御巡錫の折、自らの42歳の厄除けのために、御自身の御尊像をきざみ、それをここに本尊として安置し、厄除けの秘法を残されたと伝えられるお寺という。毎年2月3日の節分大祭をピークにした1月2月には、多くの人が厄除けに訪れるそうで、この日も数多くの人々が境内に集まっておられた。16時12分にここを通る。
遍照院
 16時21分に菊間駅に到着、16時32分の電車で伊予北条まで戻る。電車の数が少ないので、時計とにらめっこで歩いたが、予定通りの電車に乗ることが出来てよかった。


 本日の歩行時間   9時間13分。
 本日の歩数&距離 49875歩、35.4km。

旅の地図

記録

プロフィール

かっちゃん
歩人
かっちゃん