二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2013年12月08日(日)

ロッジ室戸~24番最御崎寺~25番津照寺~26番金剛頂寺~ホテルなはり          

                                          晴れ

 7時に出発しようとすると、女将さんから忘れ物をしないようにといわれたので、昨日のみかど食堂での会話を思い出して、大丈夫です、と答えて、靴を履いていると、再度女将さんが忘れ物はないですか?と念を押す。大丈夫ですよと言いながら靴を履き終えて振り返ると、なんと女将さんが白衣を持って立っているではないか。白衣を着るのを忘れていたのだ。何たることか!忘れ物があると女将さんが後から追いかけて行かなければならないので、必ずお客が出発する前に部屋を確認するそうで、私としても助かった。
 これ以降、同じ失敗を繰り返さないように、菅笠と杖それに白衣は同じところにまとめておくようにした。
 55号線を進んでいくと、右手に「青年大師像」が立っている。弘法大師49歳の青年像で、高さが21mあり、昭和59年に建立されたそうで、台座の内部は胎内めぐりができるそうだ。
青年大師像
 「室戸阿南国定公園 室戸岬」の表示板が立っており、そこに「ヒシャゴ岩」がある。昔この附近に「おさご」と呼ばれた美人が住んでいた。そのあまりの美しさに多くの男達が、朝夕ここへ舟を漕ぎよせて来て彼女に愛を求めようとしたが、彼女はその煩しさに耐えかねて、遂に美女が生まれないように祈りながら巌頭より投身したと伝えられている。しかし、「おさご」の命をかけての願いも空 しく、その後も室戸には沢山の美人が生まれていると説明にあった。室戸は美人が多いのはそのためだったのか。。。。。。。
ヒシャゴ
 右手に「御蔵洞」がある。空海はこの洞内に住んで修行を行い、人畜に害を与える毒蛇を追いだし、その跡に愛満五社権現を勧請、本地佛に愛染明王を祀ったという。
御蔵洞1御蔵洞2

 ここの海岸には遊歩道ができていて、岩場を歩くことができるようになっているので、散策をしてみた。足摺岬は高い崖の上から海を見下ろすが、室戸岬はすぐ横が海で、海岸には岩がごろごろしている。
 その先で最御崎寺へ登る遍路道がある。ここは前回来たときに見落としていたところだ。入口を入るとすぐ先に「一夜建立の岩屋」がある。ここは空海が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、最御崎寺の奥ノ院でもある。寺伝では空海が唐から持ち帰られた石像が安置されていた場所で、明治初年までは女性の納経所はここにあって、本堂には登らず、女道を通って25番へ向かったという。
一夜建立の岩屋
 ここで写真を撮っていると、昨日昼食をしようと立ち寄った店の前を通っていた歩きの方が追い抜いて行かれた。私と同じようなペースで歩かれているようだ。
 道は階段でできているが、かなりの急坂だ。これを登っていくと、「捻岩」がある。空海が修行をしているとき、その身を案じた御母堂様がこの地をおとずれ、山を登りかけると、にわかに曇り、暴風雨になったので、空海がこの岩を捻じって、その中に避難させたと伝えられているという。
捻岩
 更にその先に「岩見重太郎」「薄田隼人」の塚がある。これは豊臣秀吉の馬廻衆として活躍をした人物で、大坂夏の陣で戦死したと伝えられているという。
岩見重太郎
 「24番札所最御崎寺」に着く。ここは「修行の道場」とされる土佐最初の霊場で、嵯峨天皇をはじめ歴代天皇の尊信が厚く、また、足利幕府の時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により、寺運は隆盛した。奥ノ院の所の説明であったように、当時は、真言密教の道場とされ、女人禁制の寺であった。往時、女性の遍路は遙か室戸岬の先端から拝んだといわれるが、明治5年に解禁されている。室戸岬では東西に対峙している26番札所金剛頂寺が「西寺」と呼ばれ、最御崎寺は「東寺」とも呼ばれており、納経帳等の寺名には東寺と記されている。南国情緒を味わう室戸阿南国定公園の中心にあり、大師が悟りの起源の地でもある。
最御崎寺1最御崎寺2

 8時08分に出発する。山を下るときは舗装された道を下っていく。はるか下の方に室戸の町が広がっているが、海と山に挟まれたわずかな平地に住宅が広がっているのがよくわかる。
室戸の町
 山を下ると、55号線に並行して走る室戸岬町の中の道を進む。
 「王子宮」があり、文化8年(1811)の石灯籠が立っている。また、昭和9年の室戸台風が襲来したという記念碑が立っている。この碑はこれから先も随所に見られた。室戸台風は枕崎台風、伊勢湾台風とともに日本の三大台風といわれており、上陸した台風の中では観測史上最も気圧が低かった台風で、測候所で最大瞬間風速60mを記録したのを最後に、観測機が故障して正確な風速は計られていないということだ。
王子宮室戸台風

 歩いていると、人々が「おはようございます」「ご苦労さまです」と頻繁に声をかけてくれて、とても気持ちがいい。四国の人々の歩き遍路に対する気持ちがよくわかる。
 「25番札所津照寺」は本堂が改修中ということで立ち入ることができず、大師堂を参拝しただけで終わる。本堂は高い階段の上にあったので、正直なところこれを登らなくてすんでホッとする。来年の開創1200年に向けてこのように改修しているお寺が多い。ここは当初長宗我部氏の庇護を受け、その後山内氏が国主として入国以来、更なる庇護を受け、寺院の運営は藩営とされていたという。山内家初代一豊公が室戸の沖で暴風雨に遭った際、何処からともなく大僧が現れ、船の楫を取って御船は無事室津の港に入港する事が出来た。ほっとした所で先程の大僧の姿が見えなくなったが、ともあれ津照寺へ参詣してみると、本尊地蔵菩薩の御体が濡れており、大僧が本尊地蔵菩薩であった事がわかった、このことから本尊が楫取地蔵と申し伝えられるようになったという。
津照寺
 9時40分に出発する。
集落の中を歩いていると、「岩戸神社」があり、享和3年(1803)の鳥居が立っている。集落の中にはこうした神社が必すあって、夫々に古い鳥居や石灯籠が立っている。この辺りは特に1800年前後のものが多い。地域の方々に大切にお祀りされてきたのだろうと思う。
岩戸神社
 右手前方に室戸病院が見えるところ左手に、「女人結界」の道しるべがある。この石碑は貞享2年(1685)に建立されたもので、これより西寺領八町内へは女性は入ってはいけないという意味のことが刻まれている。西寺とは金剛頂寺のことだ。もし現在、このように女人禁制などというと、大変な騒ぎになるだろうと想像する。時代は変わった。
女人結界
 その先で55号線から分岐して遍路道へ入っていくが、入ってすぐのところに「川村与惣太」の墓がある。この人は土佐一覧記の著者で、天明7年(1787)に亡くなったという。お墓は室戸市の指定史跡になっている。
川村与惣太
 この先も急坂を登っていくが、ここにも丁石地蔵がある。四丁石地蔵から始まっていた。
丁石地蔵
 その先でベンチがあり、視界が開ける。気持ちがいいので一休みして写真を撮る。
視界が開ける
 その先に享和2年(1802)の六地蔵がある。この前に五丁石地蔵があり、この先に七丁石地蔵があったので、これが六丁石地蔵の代わりかな?と思いながら坂道を登っていく。
六地蔵
 「26番札所金剛頂寺」の仁王門には大きなワラジが下がっている。ここは弘法大師が平城天皇(在位806~9)の勅願により、本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建したのは大同2年(807)と伝えられている。創建のころは「金剛定寺」といわれ、女人禁制とされて、婦女子は行当岬の不動堂から遙拝していたという。嵯峨天皇(在位809~23)が「金剛頂寺」とした勅額を奉納されたことから、現在の寺名に改め、さらに次の淳和天皇(在位823~33)も勅願所として尊信し、住職は第十世まで勅命によって選ばれており、以後、16世のころまで全盛を誇った。室町時代に堂宇を罹災したこともあったが復興ははやく、長宗我部元親の寺領寄進や、江戸時代には土佐藩主の祈願所として諸堂が整備されている。
金剛頂寺1金剛頂寺2

 10時52分に出発する。ここの宿坊の前を通って進むのだが、前回はこの宿坊に泊まったのだ。
 右手に文政4年(1821)播州加西郡と刻まれている道標が二つ並んで立っている。
播州加西郡
 その先、舗装道から遍路道へ入る角にも年不詳ながら古い道標と石仏が立っている。
 山道を下っていくが、ここにも丁石地蔵があり、四丁石地蔵から六丁石地蔵まで確認することができた。
 山を下って55号線に合流したところに道の駅キラメッセ室戸があったので、11時25分と昼食にはちょっと早いが、昨日のこともあったので、ここで昼食にする。
 その先吉良川町を通るが、ここも歴史を感じさせる街並みが続いている。
吉良川町1吉良川町2

 このあたりでも町の人が私を手を合わせて拝んでいただいた。今日だけで2人目だ。同行二人という言葉を噛みしめる。この辺りまで来ると55号線は車の流れが多くなってくる。
 左側に「御零跡顕彰碑」が立っている。この裏側には弘法大師修行の跡といわれる洞を覆う庵があるとなっているが、気づかずに通り過ぎてしまった。
御零跡顕彰碑
 今日は終日好天に恵まれて歩きやすい一日だった。
 16時丁度にホテルなはりに到着する。このホテルもいいホテルだった。

 本日の歩行時間   9時間。
 本日の歩数&距離  47871歩、33.9km。

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