二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2015年02月21日(土)

鬼無駅~83番一宮寺~84番屋島寺~85番八栗寺~岡田屋旅館

                                         晴れ

  7時55分に鬼無駅を出発する。本津川に架かる永代橋を渡ると、すぐ右手に「顎無(あごなし)地蔵」とその裏に大きな卒塔婆が立っている。顎無となっているが、顎はあるように見えるのだが。。。ネットで調べてみると、他の場所にある顎無地蔵は歯痛に効くというのはあったが、ここの地蔵尊に関しては由来は書かれていなかったのでわからなかった。
顎無地蔵
 その先に「四ツ又地蔵」がある。ここは夫婦塚の飯田用水と檀紙から来る水が合流し、四ツに分水するところ(四ツ又)にあるので、四ツ又地蔵と呼ばれていると説明されている。
四ツ又地蔵
 香東川に架かる潜水橋が破損していて、川を渡ることが出来ないので、河川敷を歩き、五つ目の青い橋で川を渡ることにする。河川敷を歩いていると、何人もの方が声をかけてくれて、夫々に道を間違わないようにと、丁寧に教えてくれた。
 青い橋を渡る道は国分寺からの道でもある。
 9時31分に「83番札所一宮寺」に着く。ここの開基は、奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正で、当時は大宝院と呼ばれ、南都仏教の一つ法相宗の普及を行い、また行基菩薩、良弁僧正らを輩出している。和同年間(708~715)、諸国に一宮寺が建立された際、行基菩薩が堂宇を修復し、神毫山一宮寺に改名された。また大同年間(806~810)に弘法大師が訪れ、約106cmの「聖観音」 聖観世音菩薩を彫造して伽藍の再興にあたったが、この時に真言宗に改宗された。本堂は元禄14年(1701)、十方施主により再建されたものという。
一宮寺
 山門を出てすぐに左へ進み、クネクネとした細道を道しるべのシールを頼りに進んでいく。ところが172号線に出た途端、シールがなくなった。道を間違ったかな?と思ったが、地図を見ると172号線を進んでいるので、これを直進する。その先もシールが全くないので、不安を抱えながら進んでいくと、高松自動車道の下を通り過ぎたところから急にシールが目に付くようになって一安心する。やはりこのシールは本当にありがたいと改めて思う。ただ、この後もそうだったが、高松は全体的にシールが少ないし、貼られたシールがはがされたような跡があったりしたので、何らかの思惑があるのかもしれない。
ただ全体的に9年前と比較して、道しるべの数は間違いなく増えていると思う。歩く人間にとってはとても助かることだ。

 その先で中年の女性の方が近寄ってこられて、1000円をお接待していただいた。四国独特のこのお接待にはいつものことだが、感激してしまう。
 その先で道は二つに分かれており、172号線から分岐して右へ御坊川沿いに進むが、この分岐点に寛政12年(1800)の地蔵堂がある。
寛政12年
 途中に公園があったので、そこのベンチに座って昼食のパンを食べる。今日は街中なので、食事をする場所はあるのだが、パンは手軽で早く食べることができるのでこちらの方がいい。
 新川を渡ってすぐ先を左折するが、このあたりもシールがないので、地図を確認しながら進む。
 右手に「遍照院」があり、13時9分にここを通る。
遍照院
 ここから急な上り坂になる。「加持水」がある。ここには「弘法大師が、仏天を供養し誦呪加寺(呪文を読み仏の加護保持を祈とうすること)をしたといわれる水です。干ばつで各地の池や井戸水が枯れても、この湧水は絶えることがありません。 また、路傍の石碑に字が刻まれていますが、弘法大師の筆跡だと伝えられています。」という説明板が立っている。
加持水
 屋島は標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる場所だ。急坂をフーフー言いながら登っていくが、この道を登っている人は多いので、ウォーキングコースにでもなっているのだろうか?
若い女の子のグループが追いついてきた。
「どこからきたのですかぁ?」
「今日はどこまで歩くのですかぁ?」
「一日にどのくらい歩くのですかぁ?」
等々質問攻めにあう。
若者は元気だ。少しずつ遅れ始めると、「ついてきてねぇ~」と言われてしまった。普通であれば、なにくそ!と思ってピッチを上げるのだが、残念ながら疲労が蓄積していてもう気力・体力の限界。段々遅れてしまった。ただ彼女たちの後ろ姿だけはしっかり写真に撮った。そういう方面での気力・体力はまだ残っていたのだ。
若い女の子
 13時43分に「84番札所屋島寺」に着く。ここは、天平勝宝(749~757)のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809~23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている。屋島寺はまた、山岳仏教の霊場としても隆盛し、天暦年間(947~57)には明達律師が訪ねて四天王像を奉納された。現在の本尊・十一面千手観音坐像はこのころに造られており、国指定重要文化財になっている。やはり国指定重要文化財の本堂は鎌倉時代に造営されているが、寺運は戦乱によって衰退。だが、国主・生駒氏の寺領寄進や、歴代藩主の援助により相次いで修築されたという。
屋島寺
 今日は土曜日ということもあってか、参拝客が多い。
 八栗寺へ向かう遍路道は「血の池」のところから下っていく。この血の池は別名「瑠璃宝池」ともいい、屋島寺創建のとき、宝珠を本堂の前に埋め、そのまわりに池を掘ったのでその名がある。源平合戦の折、義経はじめ源氏軍が血刀を洗ったところ池はまっ赤に染まったといわれている。
 ここからの下り坂はとても急坂で、ロープが張ってあり、これにつかまりながら下っていく。さすがに膝に来る。
ロープ
 途中、享保年間の石仏が何体か立っており、更に下っていくと、大楽寺という小祠があり、その前に天保5年(1834)の宝篋印塔や文化10年(1813)の三界万霊等が立っている。
天保5年
 左手に、源平合戦の際、義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けて戦死したとされる佐藤継信の墓があり、その先にはこの佐藤継信の首を切り落とそうとして、継信の弟忠信によって倒されたという菊王丸の墓やその間にも安徳天皇を祀る安徳天皇社、更には大同年間(806~810)に弘法大師により創建され、佐藤継信の菩提寺である洲崎寺があるなど、この辺りには源平合戦に係るものが数多くある。
 八栗寺も山の上にあり、この山へ登るためのケーブルカーまである。本当にどうしてこんなに山の上ばかりにお寺を造ったのだろうと疲れてくるとつい愚痴がでてしまう。坂を登っていると、「ちょっと一休みしていきませんか」と声をかけられた。仁庵というところで、お茶、お菓子のお接待を受け、ここでホッと一息つけることが出来た。ありがとうございました。歩いている人に対してこうしてお接待をされ始めてもう8年になるという。
 15時47分に「85番札所八栗寺」に着く。ここは標高375mの五剣山の8合目にある。 天長6年(829)、弘法大師がこの山に登り求聞寺法を修めた時に、五振りの剣が天振り注ぎ、山の鎮守蔵王権現が現れた。そして「この山は仏教相応の霊地なり」と告げられたので、大師はそれらの剣を山中に埋め、鎮護とし五剣山と名づけられた。五剣山の頂上からは、讃岐、阿波、備前など四方八国が見渡すことができたので、もともと八国寺という寺名だったが、延暦年中(782~806)、大師は唐へ留学する前に、再度この山に登って、仏教を学ぶ念願が叶うかどうかを試すために8個の焼き栗を植えられた。無事帰国し、再び訪れると、芽の出るはずない焼き栗が芽吹いていたので、八国寺を八栗寺へ改名したという。この寺も長宗我部元親による八栗攻略の兵火により全焼したが、江戸時代に無辺上人が本堂(三間四面)、さらに高松藩主松平頼重が現在の本堂を再興、弘法大師作の聖観自在菩薩を本尊として安置し、観自在院と称するようになったという。 
八栗寺
 今日の宿岡田旅館は八栗寺のすぐ前にある。この宿の女将さんは感じのいい方で、良くしていただいた。お話をお聞きすると、この宿は創業140年にもなるそうで、私が泊った部屋の方は明治元年に建てられたということだった。現在の女将さんは5代目になるそうで、遍路に関してもとても詳しかった。明日行く予定にしていた女体山のことを聞くと、雨の日の(夜になって雨が降り初めていた)女体山は滑って危ないので、行かない方がいいということだった。それに女体山は本来の遍路道ではなく、最近になってできた道だという。これは知らなかった!
 てっきり昔の遍路道とばかり思っていたので、このことを聞いて、一気に行く気がしなくなってしまった。
 また八十八番まで行って後、一番まで戻るお礼参りについてお聞きすると、これも最近の傾向で、以前はなかったとのこと。一種の「はやり」ですね。と言われた。これも予想外のことだったが、翌日その真相が明らかになる。
 ここも泊り客は私一人だった。

 本日の歩行時間   7時間52分。
 本日の歩数&距離 43189歩、27.6㎞。

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