二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2013年12月12日(木)

高知屋~34番種間寺~35番清滝寺~36番青龍寺~民宿なずな        

                                          晴れ

 6時35分に出発する。外はまだ暗く、寒い。テレビで今朝の高知の最低気温は-1℃といっていた。
 今日は荷物がない。今日泊るなずなと高知屋とは連絡網があって、荷物を高知屋まで取りに来てくれるということで、荷物を持たなくて歩くことができるのだ。荷物がないと随分楽なので助かった。
 今日は当初、青龍寺の近くにある三陽荘に泊まる予定にしていたのだが、満員で断られてしまった。どうしようかと思っていると、高知屋の女将さんがなずなを紹介してくれたのだ。距離を聞くと青龍寺から7㎞ほどの所にあるという。距離は伸びるが、荷物がなければその分楽なのでお願いをした次第だ。
278号線を進み、その先で遍路道に入ると急に車が通らず、静かになる。
 古い道標が立っている。これは「手やり石」といって進む方向を指さしている。
手やり石2手やり石1

 さらに進むと、左手に小さな祠があり、境内に文政元年(1818)の石碑がある。小さな祠だが、昔から遍路する人々をこの地で見つめ続けていたのだろうと思いながら、手を合わせ、写真を撮っていると、宿で一緒だった方が追い越して行かれた。
小さな祠
 のどかな田園風景の中を歩いていき、「34番札所種間寺」に着く。山の上にあることが多い四国のお寺の中で、ここは平地に建っている。敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、仏師や造寺工を贈る旨の勅書がとどいた。彼らが渡来したのは用明天皇(在位585~87)の時代で、大阪・四天王寺の造営にあたった。ようやく落慶し、その帰途の航海中に、土佐沖で強烈な暴風雨におそわれて、種間寺が建つ本尾山にほど近い秋山の港に難を逃れて寄港した。彼らは、海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。これが寺の起源とされている。その後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師がこの地を訪ねた折に、唐からもち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる
種間寺
 8時丁度に出発する。
 黙々と歩いていくが、太陽が昇ってもあまり気温が上がらず、寒い!今回家を出るときはまだ比較的暖かかったので、防寒対策が十分でなく、手袋も持ってきていないため、手がかじかんでいてメモを取りにくい。後で読み直してみると、自分で書いた字なのに読めない文字がかなりあった。もともと字がへたなのでしかたがないが。。。
 「涼月橋」を渡るが、この橋は明治30年頃に造られたもので、その工法のすぐれた形からメガネ橋と呼ばれていたという。
涼月橋
 この辺りにも水切瓦の家が目に付く。
水切瓦の家
 仁淀川大橋を渡り終えると、川沿いの堤防の上を歩くが、風が強く、菅傘を飛ばされないように気を付けて歩く。前回ここを歩いた際、川の水がきれいだったことを覚えているが、今回はゆっくり眺める余裕はない。とにかく風が強い。幸い天気はいいので助かったが、これで雨が降っていたらと思うとぞっとする。そんな中でも一枚だけ写真を撮ったので掲載しておきます。
仁淀川
 ようやく堤防を下りて街中へ入っていくが、ここで道案内のシールを見落としたようで、56号線を進んでいく。清滝寺への道路標示板があったので、56号線から直角に分岐して進む。このあたりには古いシールがごくたまにあるだけで、不安になりながらも進んでいくと、一人の歩きの方に出会った。この方も道がよくわからないといわれていたので、同じ方向へ進んでいくと、男性の方が前方から歩いてこられ、二人にみかんをくれた。てっきり地元の方のお接待だと思ってありがたくいただいたが、後でこの方も歩きの方だったということが分かった。その先で山道に入るが、この沿道にも古い石仏が並べられている。
古い石仏
 「35番札所清滝寺」の楼門は明治33年に建立されたもので、その天井に地元の画家久保南窓の天井図が書かれており、市の有形文化財に指定されている。
楼門
 ここは養老7年に行基菩薩が行脚していたところ、この地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。これを本尊として堂舎を建て、「影山密院・繹木寺」と名づけて開山したのが初めと伝えられている。その後弘法大師がこの地を訪れた際、本堂から300mほど上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して閼伽井権現と龍王権現に一七日の修法をした。満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったという。そこで山号や院号、寺名を現在のように改め、霊場としたという。境内に大きな薬師如来像が立っている。
清滝寺
 10時35分に出発するが、帰りも来た時と同じ山道を下って行かなければならなかったのだが、何を勘違いしたのか、車道を下ってしまった。下り始めてすぐのところでお年寄りの男性の方が登ってこられたので、道を確認すると、山道を下ったところと同じ場所に出るので問題ないといわれたので、そのまま山を下って行った。ところが出たところは違う場所だった。というか、後からGPSで歩いた軌跡を見てみると、山を登った場所とそれほど離れた場所ではなかったのだが、はじめての土地なのでそのことが分からない。ここから迷走が始まった。地図を見るのだが、どうも自分のいる場所がわからない。ちょうどおられた人に聞くと、これも後で分かったことなのだが、反対方向へ向かう道を教えられたりして、わからない。そうしていると軽自動車で通りかかったおじさんが停まってくれた。地図を見せてどう進めばいいかお聞きするのだが、この方も地図を上下をさかさまにしたりして見たりしているが、よくわからないという。というのも、このあたりではこの地図の後、4本も新しく道ができていて、地形が変わってしまっているのだ。おじさんは親切に色々考えてくれたが、よくわからないので、とにかく遍路道まで連れて行ってくれませんか、そうすれば道案内のシールがあるはずなので、そこから先は大丈夫だと思うというと、快く了解してくれて、遍路道まで案内をしてくれた。遍路道に合流でき、シールを見つけることができたときは、あった!と思ってうれしかった。今日は歩く距離がかなりありそうで、日没前までに何とか宿に着きたいと思って焦っていたので、おじさんに心からお礼を申し上げてお別れする。本当に助かりました! 
 遍路道に合流して進んでいくとコンビニがあったので、例の鉄則にしたがっておにぎりを4個購入する。これが大正解で、これから先、店はなかった。食べられるときに食べる、この鉄則はとても大事だということを再確認した次第だ。
 大正4年の道標が立っており、その横に青龍寺まで9㎞と書かれた看板が立っている。時計を見ると11時52分なので、何とか明るいうちに宿に着けそうだ。
 塚地公園があり、遍路道はここから山の中へ入っていき、塚地峠を越えるのだ。ここにへんろ小屋があったので、ここで昼食にしようと思って立ち寄ると、先ほどみかんをくれた男性がおられた。この方も歩き遍路をされているのだということがこの時にわかった。
 この方は私が到着するのと入れ替わりに塚地峠に向かって出発されたが、間もなく戻ってこられて、靴ずれがひどくて、石がゴロゴロしている道は歩くことができないので、39号線を歩くといわれていた。
 峠を登り始めたが、ここは登りは800m、下りは1100mまで100m単位に丁石地蔵の現代版よろしく標識が立っていた。
標識
 標高185mという頂上にも手やり石の道標が立っている。
手やり石の道標
 落ち葉の降り積もった山道を下っていくが、物音ひとつしない静寂の中で気持ちがいい。
山道
 下る途中に天明や文化といった江戸時代の年代を刻んだ石仏がある。これも昔を偲ばせるものだ。
 山を下ったすぐのところに、安政地震・津波の碑が立っている。これは宝永4年(1707)に発生した地震、及び安政元年(1854)に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるために、安政5年(1858)に建立されたもので、碑の前面には当時の状況が詳細に刻まれているという。後年発生した南海地震では、この教訓が生かされて、津波による被害者はわずか1名だったという。現在も南海トラフ大地震が予言されているので、こういった先人の教訓はしっかりと生かさなければいけないと思う。
安政地震・津波の碑
 宇佐大橋を渡る。風が強いのではないかと思っていたが、意外にそれほどではなくてホッとする。
 昭和48年にこの橋が開通するまでは、浦ノ内湾の湾口約400mを船で渡っており、弘法大師も青龍寺を創建する際に、この湾を船で渡ったが、その際、お供をした8人をこの地に残している。その子孫が「竜の渡し」というこの渡し船を、近年まで代々守り続けてきたと伝えられている。 
宇佐大橋
 青龍寺に近づくに従って沿道に古い石仏が数多く並んでいる。昔から遍路をされる方はこれらの石仏に見守られながら歩かれたのだろうと思い、手を合わせながら歩いていく。青龍寺に着き、階段を登って本堂の前まで行くと、昨夜同宿だった方がおられた。清滝寺の下でウロウロしている間に追い越されたのかもしれない。この方は今日は国民宿舎土佐に泊まられるということだった。
沿道に古い石仏
 「36番札所青龍寺」は弘法大師が長安の青龍寺で密教を学び、恵果和尚から真言の秘法を授かったが、大師はその恩に報いるため日本に寺院を建立しようと、東の空に向かって独鈷杵(とっこ=密教で用いる法具、金剛杵(こんごうしょ)の一種。鉄製または銅製で、両端がとがった短い棒状のもの)を投げ、有縁の勝地が選ばれるようにと祈願した。独鈷杵は紫雲に包まれて空高く飛び去ったという。帰朝後、大師がこの地で巡教の旅をしているときに、独鈷杵はいまの奥の院の山の老松にあると感得して、ときの嵯峨天皇(在位809?23)に奏上した。大師は弘仁6年(815)、この地に堂宇を建て、石造の不動明王像を安置し、寺名を恩師に因み青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」としたという。
清龍寺
 14時40分に出発する。ここも今来た道を引き返すのだが、橋を渡ってしばらく行くと、前回来たときに泊まった民宿汐浜荘の前を通る。ここも感じのいい女将さんがおられてお世話になったところだ。今はもうやっていないということだが、お元気にされているのだろうか?
 海沿いの道を進んでいき、16時03分に民宿なずなに到着する。無事明るいうちに着くことができてよかった。ここの夕食は豪華だった。まだ営業を始めて5年ほどだそうで、部屋もきれいだった。

 本日の歩行時間   9時間28分。
 本日の歩数&距離  50904歩、39.5km。

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歩人
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