二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2013年12月11日(水)

南国ビジネスホテル~30番善楽寺~31番竹林寺~32番禅師峰寺~33番雪蹊寺~高知屋

                                          曇り

 ホテルから国分寺までタクシーで移動し、7時30分に歩き始める。今日は全国的に寒波が来ているということで、朝は相当に寒い。
 しばらくは山際の道を進んでいく。誰もおらず、静かだ。遍路はこんな道がいい。
山際の道
 その後は車が多い道と、静かな道を交互に進んでいく。途中にへんろ小屋がある。「へんろ小屋(第5号)蒲原」と書かれている。ボランティアでこうした小屋を作られているようだ。こういう小屋があると一休みするときに助かるが、ただ、このように隙間だらけだと、雨の日は中まで濡れてしまって使えない。折角作っていただけるのであれば、その点も少し配慮していただけると助かるのだが。贅沢な要求かな?それともほかに何か理由があるのかな?
へんろ小屋(第5号)
 「土佐神宮」がある。ここの創建は雄略天皇(5世紀後半)といわれ、後醍醐天皇の御代には式内大社に列せられており、鎌倉時代初期には土佐国総鎮守一宮となっている。元亀元年(1570)には、長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、江戸時代の藩主だった山内氏もここを保護し、二代藩主忠義は鼓楼、楼門を建立、再建したもので、土佐藩の祈願所としたという。これらは国の重要文化財に指定されている。
土佐神宮楼門

 土佐神社のすぐ横に「30番札所善楽寺」がある。ここは弘法大師が土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創され霊場と定められた。その後土佐2代藩主・山内忠義のころには武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄をきわめた。だが、明治新政府による廃仏毀釈の難を受けて寺運は一変し、昭和4年に再興されるまで苦難の日々が続いた。その後、2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日を以って「善楽寺」は第三十番霊場として現在にいたっているという。
善楽寺
 9時20分に出発する。歩いていると、草取りをしていたおばちゃんが私を見て、「ちょっと待って」と声をかけてきて、袋に入っていた飴玉をいくつかお接待で頂いた。甘いものは疲れたときにいいので、ありがたく頂く。
 今日は距離が短いので、なんとなく気合が入らず、ボチボチと歩く。やがて竹林寺へ登る山道のところまで来た。ここは前回来た時のことをよく覚えている。竹林寺を打った後、高知市内の医者に行くと、毛細血管が破れて内出血していることがわかり、ドクターストップがかかったのだ。
 山道を登ると県立牧野植物園の中を通って進み、竹林寺に着く。
 「31番札所竹林寺」は「土佐の高知の播磨屋橋で坊さんかんざし買うを見た…」で有名な「よさこい節」の舞台だそうで、一方で慶長6年(1601)に山内一豊公が土佐初代藩主になって以来、歴代藩主の帰依が厚く、祈願所として寺運は隆盛した。「文殊堂」と呼ばれる本堂は、江戸時代前期の建立で国の重要文化財。この他、山門左手の宝物館には藤原時代から鎌倉時代にかけての国指定重要文化財の仏像17躰が収蔵されており、まさに県内きっての文化財の宝庫という。
竹林寺1竹林寺2

 11時07分に出発する。山を下って下田川の川沿いを歩いていると、一人の歩き遍路の方が、「船の時間があるので、お先に!」といわれて追い抜いて行った。この先にフェリー乗り場があり、その渡し船が一時間に一本なので、それに間に合わせたいということだった。私は前回船で渡ったので、今回は橋を渡ってみようと思っていて、「どうぞお先に」と言って分かれた。
 その先、遍路道を抜けて247号線に合流したところに、小さな食堂があったので、丁度12時近くだったこともあって、ここで昼食にする。前回歩いた時、禅師峰寺の近くに食堂があったことを記憶していたが、現在どうなっているかわからなかったので、ここでも鉄則に従って昼食にする。無事お腹を満たすことができたので、今日はもう安心だ。昼食を食べることだけで満足するなんて、我ながらかわいいものだと思う。
 左手少し入ったところに武内半平太の旧宅と墓があるという看板が立っていたが、立ち寄らずに進む。
 「32番札所禅師峰寺」は標高82mほどの峰山の頂上にあることから、地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれて親しまれている。また、海上の交通安全を祈願して建立されたということで、海の男たちは「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師たちに限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出航する歴代の藩主たちは、みなこの寺に立ち寄り、航海の無事を祈ったという。
 山道を登っていく途中に二丁石地蔵を一つだけ確認することができた。境内には奇岩霊石が立ち並んでおり、その姿から弘法大師は観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域であると感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法されたという。
禅師峰寺
 13時01分に出発する。ここから先も黙々と歩いていき、予定通り渡し船を使わず、浦戸大橋を渡ったが、今日は風が強い。橋はかなり高い所にあって猛烈な風が吹いている。しかも歩道が人ひとりようやく通ることができるほどの広さしかない。これは想定外だった。橋の上から海を眺めながら歩くという目算は外れてしまい、菅傘を飛ばされないように両手で握りしめ、身を縮めて、ひたすら歩いていると、前から一人の方がやってきた。お互い下を向いて歩いているので、もう少しでぶつかりそうになったが、直前で気が付いて、その方が歩道から車道に一歩踏み出して頂いたのですれ違うことができた。とにかく歩道が狭いのだ。徳島の時といい、今回といい、強風にさらされることが多い。やっとのことで橋を渡り切って、、右折して坂を下っていくが、この辺りは道案内がない。坂を下ったところは突き当りになっており、左右に道が伸びている。さて、どちらに行ったものかわからない。左手を見るとトンネルになっているので、これを行ってみようと思って進んでみると、民宿坂本、民宿五色石荘があった。この二つは地図に載っているので、自分のいる位置が分かった。遍路道は先ほどの道を右へ進むようなので、もう一度戻ってトンネルを抜けて右へ進む。ここから先も道案内のシールはほとんどなく、しかもかなり距離がある。これは待ち時間があってもフェリーに乗ってきた方がはるかに早そうだった。
浦戸大橋
 15時21分に「33番札所雪蹊寺」に到着する。ここは四国八十八ヶ所霊場のうち2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院であり、鎌倉時代の高名な大仏師、運慶とその長男、湛慶がこの寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩像を制作、また、湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげるかわいい善膩師童子像を彫造して安置したとされている。また、「南学発祥の道場」といわれ、江戸初期の住職、天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、野中兼山などのすぐれた儒学者を数多く生みだしているという。
雪蹊寺
 境内には雪蹊寺で出家し四国を17回にわたって遍路をし、廃仏毀釈で廃寺となった寺を復興させた17代山本太玄住職の供養塔がある。ここは長宗我部家の菩提寺でもある。
供養塔
 今日の宿はすぐ前にある高知屋だ。ここは評判がいい宿で、女将さんに親切にしていただいた。


 本日の歩行時間   7時間51分。
 本日の歩数&距離  43785歩、30km。

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