二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2015年02月17日(火)

蔦廼家~65番三角寺~民宿岡田

                                       曇一時雨
 

 7時34分に伊予寒川駅を出発する。昨夜のうちに雨が降ったようで、地面には水たまりができているが、幸い今朝は止んでいる。
 駅の近くにコンビニがあったので、早速昼食用にパンを購入する。その先にも数軒の店があったが、途中から全くなくなったので、ここで購入しておいて正解だった。
 寒川小学校の先の右手に文政8年(1825)の三界万霊がある。このあたりには石仏がかなりあるのだが、このように建立年がわかるものは少ない。
文政8年
 寒川郵便局の横に領界標石が立っていて、「従是西 西條領」と刻まれている。西條藩の領界標石を見るのはこれで2本目だ。
領界標石
 大きな交差点があり、そこに「前神寺 九里」「三角寺 五十丁」「奥ノ院 百八丁」と刻まれた明治36年の道標が立っている。
明治36年の道標
 その先、右手に地蔵堂があり、年不詳の道標が立っているところから右折して進むと、すぐ先右手に「石床大師堂」という石碑が立っており、お堂には「ひよけ大師」と書かれた木札がかかっている。説明書きがなかったので、詳細はよくわからなかった。8時40分にここを通る。
ひよけ大師
 319号線を横断した左手に文政2年(1819)の三界万霊を含む4体の石仏がある。
文政2年
 11号線に接するところ、右手に若連中が建立した遍路石がある。その横に「この石柱が刻まれた天明8年(1788)は近隣の現存標石中古い方に属する年号で、中曽根村が三角寺道をつけた時期につながる。当村には古くから分れ路等に地蔵尊があった。この年から集落毎に若者や女性達仲間がへんろさんの為に道標を建て始めた。さらに宇摩郡や全国の篤志家も三角寺や奥の院への道筋に案内石を建てた。その上古い奥の院の院詣での丁石などを加えると八十八か所中遍路石の数は大変多くなったといえる。」と書かれた説明板が立っている。
遍路石
 その反対側に天保6年(1835)の三回万霊と年不詳の小さな三界万霊がある。
天保6年
 その先、右折した左手に明治15年、文化14年(1817)、そしてもう一本年不詳の3本の道標が立っている。
文化14年
 更に前方に八幡神社が見えるところ左手に天保3年(1832)の常夜燈と年不詳の三界万霊がある。
天保3年
 その先右手に文化5年(1808)の道標があり、「左 遍んろみち 三角寺 三十四」まで読むことができるが、それから下は土に埋まっていた。
文化5年
 更にその先右手には文政8年(1825)と読める道標があり、その先で突当りを右折するが、ここには文化15年(1818)の道標が立っている。
 高速道路の下のトンネルを抜けたところに道標と説明板が立っている。それによると「市内には道しるべが約50基あり、そのうちの38基が「へんろ道」「三角寺道」で遍路をする人々のために作られたものという。中之庄からは1丁ごとに建てられており、約200年ほど前から作られている。中でも生涯で八十八か所を280回も廻ったという大先達の山口県の中務茂兵衛さんが建てたものが、8基ある」と説明されている。確かにこのあたり道標が数多くある。9時17分にここを通る。
 「ゴ~ン」という三角寺のものと思われる鐘の音が聞こえてきた。参拝客が鐘をついたのだろう。
 右手に墓地が広がっており、そこに真念が建立した道標が立っている。説明板によると、真念は元禄年代の人で、四国遍路道指南(1678年発行)、四国巡礼功徳記(1690年)の著書がある四国八十八か所巡りの中興の祖であり、真念ゆかりの道標は今のところ33基確認されているという。
真念
 左手に戸川公園があり、このあたりから坂道を登っていく。時々「パ~ン」という鉄砲の音が聞こえる。そういえば今の時期は狩猟の解禁時期だったことを思い出す。
 万延2年(1861)の道標が立っており、ここから右折して細道を進む。道は細いが舗装されており、歩きやすい。
万延2年
 坂道を上っていくと、右手に小祠があり、そのすぐ先に嘉永5年(1852)の道標が立っている。
嘉永5年1嘉永5年2

 その先で道は完全な山道になる。昨夜の雨で道は濡れているが、さほど歩きにくいことはない。
 十丁石、九丁石というふたつの丁石を見たが、それ以外は見当たらなかった。
 山を登っていくと、「杓子」がぶら下がっている。三角寺から頂いたものかな?それにしてもこんな山の中になぜ置いているのだろう?
杓子
 文久3年(1863)若連中と刻まれた道標があり、その先には弘化3年(1846)の道標が立っている。道はここから平坦になり、その先で舗装された道にでる。
 文政7年(1824)の「三角寺道 是ヨリ四丁」と刻まれた道標があり、その先で三角寺に着く。階段を登ったところに鐘楼があり、、先ほどの音はこの鐘をついていたのだな、と思って、私も鐘をついた。付和雷同する傾向が私にはあるのです。
鐘楼
 10時42分に「65番札所三角寺」に着く。ここは伊予最後の霊場で、標高は約430m、聖武天皇(在位724~49)の勅願によって、行基菩薩が弥勒の浄土を模して具現するために開創したと伝えられる。その後、弘仁6年(815)に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置された。さらに、大師は不動明王像も彫られ、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して「降伏護摩の秘法」を修法されたという。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来ともなっている。また、嵯峨天皇(在位809~23)の厚い信仰をうけ、寺領300町歩をいただき、七堂伽藍を備えて寺運は隆盛だったと伝えられる。だが、長宗我部軍の「天正の兵火」に遭い、本尊以外を焼失した。現在の本堂が再建されたのは嘉永2年(1849)で、昭和46年に修復されている。また「子宝杓子」といって、子宝に恵まれない夫婦が寺で杓子を授かり、仲良く食事をすると子宝に恵まれると伝えられる。子供を授かった後に、新しい杓子と授かった杓子をもってお礼参りをするという。先ほど山中にあった杓子もその関係なのだろう。
三角寺
 三角寺の階段を下り、右手へ進む。きれいに舗装されているが、車も人も全く通らない静かな道だ。緩やかに下っていくと、「お小屋跡」の石碑が立っており、「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。また同じ石碑の別の面には「旅籠島屋跡」とも書かれていて、それには「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」と書かれている。
お小屋跡
 そのすぐ先に年不詳の道標が2本とまだ新しい土佐街道と刻まれた碑が立っている。山を登ってくるときは山道だったので、数多くの道標が立っていたが、下りは舗装された道だったためか、道標は全くなく、ここが初めて見る道標だった。
道標が2本
 平山のバス停まで来たときに丁度昼になったので、バス停の小屋で昼食にする。この時雨が降ってきたが、幸い大した降りではなかったので、助かった。
 12時53分に「常福寺(通称椿堂)」に着く。ここは大同2年(807)邦治居士が地蔵菩薩を祀り当地に庵を構えたことに始まるという。更に伝承では、弘仁6年(815)四国巡錫中の弘法大師が当時この地で熱病が流行しているのを聞き、杖をもってその邪気を地中に封じ込めたという。弘法大師が立てた杖から椿が芽を出し、やがて大木となったことから「椿堂」と呼ばれるようになった。宝暦11年(1761)近くにあった常福寺が全焼したため、常福寺をここに移し、常福寺椿堂とした。安政6年(1859)の火災で椿も焼亡した。現在の椿は焼け跡から再び芽が出たもので、「大師お杖椿」と呼ばれ境内の向かって右側に生育している。
椿堂
 その先192号線を歩いていき、七田のバス停から右へ分岐し、境目峠へ向かう。山道なので下が緩いのではないかと思っていたが、落ち葉こそ積もっていたが、下は舗装されていて、滑るようなことはなかった。15分ほど坂道を上ると、舗装された道に出、それから先は舗装道が続いていた。途中に愛媛県と徳島県の県境があり、ここに「従是東 徳島県三好郡」と刻まれた領界石が立っている。14時14分にここを通る。
県境
 道はここから下り坂になり、14時52分に今日の宿である民宿岡田に着く。ここは前回の時も泊っていて、感じのいいご主人もお元気そうだった。現在は息子さん夫婦と一緒に宿をやられているということだった。
 ここでは最初の宿の小松でご一緒だった福島の方も同宿だった。

 本日の歩行時間   7時間18分。
 本日の歩数&距離 40099歩、26.1㎞。

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