二回目の四国遍路を歩く

2013年11月19日(火) ~2015年02月22日(日)
総歩数:1678682歩 総距離:1146.8km

2015年01月20日(火)

民宿とうべや~43番明石寺~ときわ旅館

                                          晴れ

 
 7時15分に出発する。宿を出ると、すぐに歯長峠に差し掛かる。「歯長峠 1.7㎞」というあの「四国の道」の標識と「へんろ道」と刻まれた明治36年の石碑が立っている。7時25分にここを通る。
歯長峠 1.7㎞」

 その先で右手にへんろ小屋があり、遍路道はそこから更に上に登っている。ただここに「通行止」の看板が立っている。
通行止
 理由が書かれていないが、恐らく土砂崩れで歩きにくくなっているのだろうと思って、一瞬迷ったが、もし歩くことが出来なければ戻ってくればいいと思って、7時50分、そのまま急坂を登っていく。
 ここから道はかなりの急坂で、道沿いに鎖が張られている。
坂を登り切ると、後は平坦な道になるので、進んでいくと、やはり土砂崩れの場所が一か所あった。
土砂崩
 ただ何とか人ひとりが歩けるだけの道は残っていたので、注意をしながら進む。
 ここを通り抜けると後は何ら問題なく8時14分に峠に到着する。ここにはロープが張られていて「土砂崩れのため通行止め」とはっきりと理由まで書かれていた。峠には見送大師を安置する「送迎庵見送大師」と呼ばれるブロック造りの大師堂がある。この大師堂は、もとは六角屋根の木造のお堂で、「四十二番札所仏木寺奥之院」の木札が掛かっていたが、昭和39年(1964)に遍路の失火によって焼失してしまった。昭和42年に地域が大干ばつに見舞われた折に、「あのお堂の地蔵さんを雨曝(あまざら)しにしている崇(たた)りではないか。」と資金を出し合ってお堂を再建したという。
送迎庵見送大師
 昭和の初期までこの峠道は宇和と三間、宇和島を繋ぐ唯一の生活道で大勢の人が往来しており、また戦略上重要な要衝でもあった。峠の名前の由来は、源平のころ、東国武将だった足利又太郎忠綱は大変な勇士で力は百人力、声は十里四方に及び、その歯の長さは一寸余あったという。そのことから又の名を歯長又太郎といい、ここで庵を結んだことから庵寺にも峠にも歯長の名前が付いたという。
 峠からは眺望が開けており、朝もやに霞む山々を臨むことが出来た。
眺望
 ここから下り始めるが、道が二本に分かれており、右手を下っていく。ここも遍路道の札が下がっているので間違うことはない。
 峠を下っていく途中、右手に「明石寺江」と刻まれた寛文7年(1667)の道標地蔵が立っていた。
明石寺江
 かなりの急坂を下っていき、8時55分に舗装された道にでると、右手に「歯長地蔵」があり、その横に「おへんろさんのお墓」として文化3年(1806)や安政と読み取ることが出来る古いお墓が集められている。昔は険しい歯長峠越えで力尽きて行き倒れる遍路も多くいたそうで、そういった方々のお墓なのだろう。
歯長地蔵
 すぐ横に遍路小屋があったので一休みする。今日は好天で暖かく、歩いていても気持ちがいい。
 29号線に合流して進んでいくと、右手に「道引大師」があり、その前に小さな三界万霊と「明石寺へ一里」と刻まれた明治29年の道標が立っている。天気がいいだけに朝方の冷え込みは厳しかったのだろう、お堂の前の慶応3年(1867)の手水鉢には氷が張っていた。
道引大師
 さらに進んでいくと、明石寺まで後10分というところまで来た右手に、古木が立ち並んでいるところがあり、そこに明石寺の奥ノ院の小祠がある。
明石寺の奥ノ院
 10時23分に「43番札所明石寺」に到着する。ここは本来「あげいしじ」なのだが、現在は「めいせきじ」と呼ばれているという説明書きが立っていた。
明石寺
 ここは6世紀の前半、欽明天皇の勅願により、円手院正澄という行者が唐からの渡来仏であった千手観音菩薩像を祀るため、この地に七堂伽藍を建立して開創したのが起源とされている。
 弘法大師は弘仁13年(822)にこの地を訪ね、荒廃した伽藍を見た大師は、嵯峨天皇(在位809~23)に奏上して勅命を受け、金紙金泥の『法華経』を納めて、諸堂を再興した。その後、鎌倉時代になり、源頼朝が再び荒れ果てた伽藍の修復に当たった。建久5年(1194)、頼朝は命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納、また経塚をきずいて、山号の現光山を「源光山」に改めた。以来、武士の帰依があつく、室町時代には領主・西園寺家の祈願所として、また江戸時代には宇和島藩主・伊達家の祈願所となり、末寺は70余寺を数えたと伝えられる。
 ここは本堂に向かって左手に遍路道があるので、これを進む。佛木寺へ向かう時のように、遍路道の最初の入り口を間違わないように気を付けながら進む。
 山を下っていくと、宇和の街中へ出るが、ここは「西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区」になっていて、歴史を感じさせる町並みが続いており、市指定有形文化財になっている「鳥居門」がある。10時56分にここを通る。
伝統的建造物群鳥居門


 右手に南北朝時代に宇和郡領主として当地を支配した西園寺氏の居城だった松葉城址を見ながら進む。 56号線に合流する手前に西園寺氏の氏神であった「春日神社」があって、天保3年(1832)の鳥居、天保4年(1833)の常夜燈があり、大きなタブノキが立っている。
春日神社
 途中、まだ新しくてきれいなへんろ小屋があったので、ここで休憩を取る。みかんが置いてあったので、これを遠慮なくいただいた。
きれいなへんろ小屋
 そのすぐ先にコンビニがあったので、12時を少し過ぎていたこともあって、ここで昼食にする。こんなに近くにコンビニがあるのであれば、先ほど休憩を取る必要はなかったなと思いながら、まぁ時にはユックリしようと気持ちを切り替える。
右手に「従是南宇和嶋領」という領界石が立っており、その横に「鳥坂峠 2.7㎞」「明石寺 10㎞」と記された”例の”「四国の道」の標識が立っている。ここを13時15分に通過する。
従是南宇和嶋領
 やがて道は鳥坂峠に差し掛かる。ここに遍路道との分岐点があり、「この先鳥坂トンネル(L=1117m)トンネル内歩道狭し。ここから峠道(へんろ道)5.5㎞ 約60分) 56号(トンネル利用 2.1㎞ 約25分)という標識が立っている。地図を見ると遍路道はその先で番外の方へ向かっているようで、56号と交差しているのかどうか、よくわからない。それに標高差200mほどもある道を時速5.5㎞で歩くのはかなりのスピードだ。私の足だともっと時間がかかるだろうななどと考えた。それやこれやでなんとなく遍路道を歩く気がしなくなって、トンネルを歩くことにした。後から考えると遍路道を歩けばよかったと思ったものの、何故かこの時は気が進まなかったのだ。もったいないことをしたと今になって思う。トンネル内は確かに歩道がなくて、すぐ横をトラックがビュンビュン通り過ぎるので、あまり気持ちは良くなかった。
 やがて道は大洲の街中へ入っていく。道は入り組んでいるが、随所に遍路道の札が下がっているので、それを頼りに歩いていく。肱川河畔に「大洲城」が見える。
大洲城
 ここは元弘元年(1331年)鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって築城されたといわれ、その後、藤堂高虎等によって大規模に修築がなされ、伊予大洲藩の政治と経済の中心地として繁栄したという。
 明治維新後は、城内のほとんどの建築物が破却されたが、平成16年(2004年)に復元されたという。
 江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓は国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。戦後復元された木造天守としての四層四階は日本初で、19.15mの高さは日本一という。

 今日の宿「ときわ旅館」には15時43分に到着する。


 本日の歩行時間   8時間28分。
 本日の歩数&距離  44896歩、33km。

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